第82回:市民権
更新日2003/03/06
イスレタに棲み始めたばかりのとき、プエルトリコ人は皆、私のことを“チーノ”(中国人)と呼んでいた。ここではよそ者は誰もそのように呼ばれる運命にある。フェルナンドはここの古株だが、いつまでたっても“ポルトゲース”(ポルトガル人)だし、マリクルズは“ベネズエラーナ”(ベネズエラ人)と呼ばれる。
ここのボートヤードで働くカポが、“ハポン”(日本)と“チーナ”(中国)は違う国だ、私は“ハポネス”(日本人)だと教養のあるところを披露し、他の連中が私のことを“チーノ”と呼ぶたびに、アイツは“チーノ”ではなく“ハポネス”だといちいち修正してくれるのだが、一度呼び慣れたらそれを変えるのは非常に難しいことようだった。
私本人がそんなこはどちらでもよいと思っているせいもあって、私のイスレタ公式呼称は“チーノ”に落ち着いたかに思われた。
どこのマリーナ、ボートヤードにも世の東西を問わず、ヌシ(主)がいる。イスレタのボートヤードのヌシはヒデだ。日本にも同じような愛称をもつ、人気歌手とか作家がいるが、イスレタのヒデは年の頃60歳近く、極めつけの黒人で、それも並みの黒さではない漆黒で、闇に溶けるような黒さなのだ。
マリネーロのパンチョが夜、誰かがボートヤードに短パンを干したまま帰ってしまったのを見つけ、その短パンに手をかけたところ、それは短パンに上半身裸のヒデだったとまことしやかに語られた。
ヒデはいつも苦虫を噛み潰したような表情を崩さず、口を開くのはモノを食べるときだけで、挨拶を返すことがなにか宗教上の理由でご法度になっているかのごとく、こちらが挨拶しても完全に無視する。
私は信条として、と大きく構えることもないが、習慣として誰にでも元気よく挨拶することにしている。所詮、私はよそ者だし、挨拶くらいはその国の言葉で大声で行い、その土地の人間に近づこうという腹つもりもある。
ヒデとはフェリーやマリーナで毎日顔を合わせていたが、まるで犬か石ころほどにも私に注意を払わなかった。挨拶の一方通行、そうなのだ、私は生来のズボラから、相手が応えようが応えまいが、“ブエノス・ディアス”を連発していたのだ、が一年ほど続いたころ、私のヨットを上架することになった。
長いこと手入れしていなかった船底を徹底的に修理することにしたのだ。ファイバーグラスは遅かれ早かれ、水面下に水疱瘡のような水ぶくれができ、放っておくとファイバーグラスの積層が剥がれてくるのだ。
治療は船底全体を2、3ミリの厚さを削り取り、エポキシ系のペーストを6、7層塗ることだが、工事自体は複雑なものではない。しかし誰もが嫌う仕事なのだ。というのはファーバーグラスをグラインダーで削り落とす作業が猛烈なホコリを巻き起こし、その目に見えるか見えないかのキラキラ光るファイバーグラスのカケラが皮膚に何千、何万と突き刺さるのだ。
もちろん安手の宇宙服のような作業服で身を固め、マスク、ゴーグル、手袋をつけ、完全防塵スタイルで挑むのだが、極小のチリはどこからか入り込み皮膚に突き刺さり、やりきれない痒みを一週間ほど与える
のだ。
こんな作業をヨットのオーナーは自分でやらない。取り分けプエルトリコでは安い労働力を使って他人にやらせる。私は一人でこの工事をしたのだが、人を雇うお金がなかったし、自分のヨットのことは何でも自分でやってみる主義のようなものも多少あった。
ボートヤードでの上架費用が高いので一日でも早く終わらせようと、朝、陽が昇ると同時に作業に取り掛かり、夜遅くまで沢山の電灯を点けて、突貫工事よろしく粉塵にまみれて働いた。貧しさのなせるところである。
キールの底を仰向けになった苦しい姿勢でグラインドしているとき、真っ黒な2本の脚が目に入った。ヒデがダンボールとキャンプに使う固めのマットを抱えて立っていたのだ。そして、それを敷いてその上に寝て仕事をすると楽だとかなりきれいな英語で言ったのだ。
私が“グラシアス”とマスクの中で言い終わる前に、ヒデは背を向けていた。それからチョクチョクと、言葉は足りないが実に適切な忠告をしてくれたり、道具を持ってきてくれたりしたのだ。
ヨットを水に戻した日、ヒデにお礼を言いに行った。ヒデははにかむように、照れ笑いをしながら、“オンブレ! ナーダ、サーノ”(どうってこたーないさ、サーノ)と言ったのだ。ヒデが私の名前を“サーノ”と少し間延びのした形ではあるが知っていたことも、口を開いて答えたことも奇跡のように思えた。
それから、幾日も経たず、私はボートヤード、マリーナの皆から“サーノ”と呼ばれるようになり、かって私が“チーノ”(中国人)だったことを思い出す人はいなくなった。
こうして私はイスレタ市民権を得たのだった。
第83回:生と死