第87回:遠き日本 その1
更新日2003/04/17
ガブリエルさんはどうしても“さん”づけで呼びたくなる物腰のユッタリした中年紳士だ。いわばイスレタの遺族階級である。
小柄で華奢な身体に丸い顔がのっている風貌は、どう見てもヨッティーではないが、帽子だけはいつもキャプテン帽をかぶっている。清潔で高級そうなポロシャツに短パン姿だが、そこから出た腕も足も白く細く、デッキシューズはいいが、真っ白いソックスはいかにもオカの人間のファッションだ。
仕事をせずに食べていける結構な身分であるだけでなく、イスレタにヨットとコンドミニアムを持ち、加えてサンフォアンに超立派級の家も持っている。しかものん気な一人暮らしなのだ。
フェリーの桟橋で、郵便局で、ポンツーンで顔を会わせるとき、必ず丁寧に挨拶をするが、無駄話、長話はしない。差し障りのない話題を気詰まりにならない程度にして、軽く冗談を言い、笑みを交し合うだけの関係が何年も続いた。
スペイン語、英語も綺麗な、そして高い教育を受けた話し方をガブリエルさんはする。後で知ったが、二つの博士号をもち、投資会社と銀行のコンサルタントのようなことをしているとのことだった。
日本語の単語を幾十か知っていて、「もっとはっきり話してください」とか、「それは、ダメですよ」とか、文章になった紋切り型の日本語を披露するのだった。その言葉遣いが女性のものなので、過去に日本に住み日本女性とかなり付き合いがあったのだろうと、かってに想像していた。
4、5年も経った頃だろうか、理由は忘れたが、ガブリエルさんのコンドミニアムを訪れる機会をもった。上下2軒のコンドミニアムを自分だけの螺旋階段でつないでいた。彼の住居は最上階にあり、カリブ海と大西洋が見渡せ、その二つの海の境界に点在する島や岩礁が遠く水平線に浮かぶヴァージン諸島へと連なっている光景が、張り出したテラスの向こうに広がっているのだった。
インテリアデザインというのは、いざ自分でゼロから作り出すのは不可能に近いが、飾り付けられた室内を見て、趣味の良し悪しを言うのは易しい。ガブリエルさんの室内は海とヨットがモチーフのすべてで、古いブロンズの船具や、骨董品のたぐいがさりげなく置かれ、過多に陥らず、シックなバランスを保っていた。
時化(シケ)た大海原を全帆を揚げている帆船の安手な売り絵などのたぐいは一つもないのだ。彼の趣味の良さ、繊細さ、優しくいつも他人を気遣う物腰、掃除の行き届いた部屋、ホコリのかぶっていない本棚などから、一瞬ホモかなと思ったほどだった。
本棚に小さなチークの額に入った白黒の写真に目が止まった。インテリアにこだわった中で、それが唯一の写真だった。真っ白な海軍士官服に身を固め、まだ少年のはにかみを残したガブリエルさんと、小柄な彼より頭半部は高い女性が写っていた。
その女性は髪を自然のウェーブにまかせ、肩までたらし、ほっそりした体にウエストを軽く締めた裾の広がった長いドレスを着ていた。しかし彼女を決定付けているのはその顔だった。意思と生命のみなぎった目が輝いているのだ。
私は軽い衝撃に似たものを彼女の顔、特に目から受けたのだ。カフカやジャン・ジュネの一枚の写真を見たときとは異質のものだが、彼女の眼差しにも何か強烈な印象を人に残さずにはおかないものがあったのだ。
青春が美しく輝くのは、人生でその時期だけ、一瞬、一瞬を燃やしえるからだ。
私がその写真を手に取り、執拗に近いほど眺め入っているのを目にしたガブリエルさんは、「彼女が日本語を教えてくれたミチコですよ」と教えてくれた。
しかし写真のミチコはどう見ても日本人には見えないではないか、と質問するより先にガブエルさんは、子供が手品の種でも明かすように、
「そう、彼女は日本人ではありません。ロシア人です。しかし彼女の魂は日本人でした。」と言ったのだった。
第88回:遠き日本 その2