第45回:アンとポール
更新日2002/06/13
今だからこそ、旧共産圏が崩れたのを歴史の事実とし、当たり前のこととして受け入れているが、ベルリンの壁が壊される3ヶ月前に、誰がそんなことを予想したであろうか。
アンとポールの脱出行はそれより5年遡った、鉄のカーテン時代のことだった。
私が彼らに会った時、私は友人と共同で、分不相応な52フィートのケッチをスペインのマジョルカ島に持っていた。当時パルマ・デ・マジョルカのパセオは船のサイズに関係なく、1日1隻50ペセタ(約30円)で、しかも自転車に乗った、集金係りの伯父さんは実におおらかなスケジュールで、集金に来たり、来なかったりしたものだった。
ある日、ベニアの箱のような、不恰好なヨットが港に入ってきた。正確にはパセオの岸壁にエンジンなしで着けようと苦闘していた。私はディンギーで舫いロープを取りに行き、私たちの船に彼らのヨットを横抱きするように係留するのを手助けした。20フィート前後の彼らの船は、まるで私たちのヨットの足船のように見えた。
この若い、恐らくまだ20代前半のチェコ人のカップルは、ヨットで共産圏脱出を計画的に練った。チェコでヨットを自作したが、サイズはチェコ人が比較的容易に行き来できるユーゴスラビアへ抜けるトンネルの高さで決められた。
時代モノのトラックにキールを外し、マストを倒したヨットを積み込んだ写真は、世界大恐慌の時、アメリカ中西部の百姓がカルフォルニアを目指し旅したスタイルそっくりだった。
計算したはずのトンネルが通れず、トラックのタイヤの空気を抜き車高を下げてやっと通り抜けた話、チェコとユーゴの国境通過の話、車用のジャッキでヨットを降ろした話、冒険タンは尽きることがなかった。
ポールは機械工学のエンジニア、アンは看護婦さんだった。が彼らの財産は若さと、人を引き込まずにはおかない明るさ、自分の貧しさを笑うことのできる精神だったと思う。
誰もがこの若いカップルを好きにならずにはいられなかったのだ。後日、彼らがマジョルカに着いたとき、持ち金は8ドルだったと打ち明けた。
周囲のヨッティーたちはこぞって、アンとポールに仕事を与え、ヨットの備品を与え、パセオのマスコットになったのだ。
数ヶ月後、イビサのサンアントニオにアンカーしていたところ、見間違えようのない彼らのヨットが入ってきた。今度は船外機が付いていたので、ノロイながらも自力で私たちの船に横付けできたが。
ジブラルタルを抜け、カナリー諸島に寄り、大西洋を渡り、まずカリブの島にとっつくプランだ。2、3日共に過ごしたあと、彼らはジブラルタルへ向けて帆を揚げた。
4、5ヶ月も経ってからだろうか、ヨット仲間がアンとポールが載っているヨット雑誌を持ってきてくれた。無事にカリブのサンタルチア島に着いた記事が、彼らのにこやかな写真と共に出ていた。
アンとポールを知る者たちが集まった時、彼らの前途とアメリカの移民局が彼ら受け入れることを祈って乾杯を重ねたことだ。
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