第68回:食は易し
更新日2002/11/21
陸の植物にはまことに疎く、椰子の木とバナナの木の区別がようようつく程度だった。ところが借りた事務所の10坪ばかりの裏庭に熱帯植物園もかくやと思われるほど、得体の知れないコモゴモが生い茂っていたのだ。
バナナは幾房か木も倒れんばかりに成っていたので、それがバナナの木であることはすぐに分った。熟すのを待って、一房切り落とし、数えて見たところ、58本のバナナがあった。木で熟したバナナは皮が薄く、味が濃く、なるほど美味しいものだった。
初めての収穫を食べ終わらないうちに、次の一房が熟してきた。そしてまた次のが、というように際限なく取れるのだ。マリーナの仲間にもあげたが、喜んでもらえたのは最初だけで、皆もううんざりした表情を隠そうともしないのだ。
プエルトリコ人の家で夕食をよばれた時、必ず出るのがマメ料理にご飯、そしてバナナ料理だ。当初、芋の一種だと思っていたが、青いバナナをつぶしてから揚げたものだった。青バナナは実際芋のように使われ、プエルトリコの食生活になくてはならぬものだ。付け加えて、黄色く熟した甘いバナナを食べるのは、歯が生える前の赤ん坊と外国人だけだ、と言われた。
バナナの木は一度実が成ると枯れて死ぬが、地下茎が張り巡らされているのか、すぐその脇から新芽が次々吹き出すので、年中途切れることがない。
大きな日陰を造ってくれるマンゴーの大木があった。緑の実が幾百となく垂れ下がり、色づくのを心待ちに待ち、半分ほど黄色くなったのを少し早いかなと思いつつ割って食べた。まだ渋みがあり、繊維が多く、歯の間に挟まり、食べにくいのはまだよいが、その2日後、口の周りに始まり、指の間、大事な器官のある脚の付け根、首に湿疹が出始めたではないか。それも第一級の痒さを伴って一週間以上居座ったのだ。
我が家の渋マンゴーは腐る手前にようよう食べられるようになるのだった。最初の年の初めての収穫の時だけ、マンゴージャムを作ったりしたが、その後はバケツに入れ、ご自由にお持ち帰りくださいと札をつけて道端に出した。ある朝事務所に行くと、マンゴーが玄関先にゴミのように捨てられ、バケツがなくなっていた。
誰に訊いても正確な科学的説明をしてくれないが、マンゴーは年1回実の成る年、2回実の成る年、一昨年のように3回も実の成る年があるのだ。3回の年はハリケーンの当たり年とか、狂い咲きした木は枯れると言われているが、今年はハリケーンが来ないよい年だったし、木は元気に沢山の実をつけ、死ぬ気配はない。
一番始末に困ったのはパンの実だった。パンの木は戦艦バウンティーの反乱の原因を作ったミナモトである。奴隷の食料を確保するため、パンの木の苗木を運ぶ使命を受けた船長ブライが、乗組員の飲料水を減らしてまでパンの苗木に水をやったことが反乱を誘引した、と言われている。忌まわしき由来を持つパンの木、それもここいら界隈で一番立派な超大木が、狭い裏庭の隅に枝葉を隣と裏の家の領海を侵してそびえたっていたのだ。
パンの木とはまことによく名付けたもので、小型のバレーボールほどに熟れた黄緑色をした実の皮を割ると白い果肉がビッシリつまっているのがパンによく似ている。
パンの実の料理は、隣のアンパロおばあさんから教えを授かった。アンパロばあさんは自分の料理にプライドを持ち、土地の植物に詳しく、かつそれらの知識を毛色の変わった私に教える使命に燃えていた。パンの実自体、これほど無色、無臭、無味のものはない。そこで焼いたり、揚げたり、蒸したり、オーブンで処理したりするが、いずれの場合も塩とニンニクの味加減が鍵になる。
アンパロばあさんに、何時でも自由に庭に入って、好きなだけ持って行くように言ったところ、お礼の意味か、10種におよぶパンの実料理が連日届けられるようになったのだ。一食に一家族でもパンの実の半分も食べられないものだ。私の場合、アンパロばあさんパンの実攻勢にあってから、3日目から腹が張り出し、大量のガスを放出し始めた。
300個位の実が一斉に熟し始め、木の上方3分の2のところは採るに採れず、朽ち落ちるに任せるほかなかった。屋根や地上に落下すると、腐ったかぼちゃのようにグシャっと潰れ、足の踏み場もない状態に陥った。それを待っていましたとばかり、小さな野鼠、アリがワッと押し寄せてきたのだ。
困ったときのアンパロばあさん参りをしたところ、2、3日後、ばあさんはどこからか、まことに騒々しい鶏を10羽ばかり連れてきて、裏庭に放したのだ。確かに鶏は庭掃除をしてくれるが、その分だけ糞を蒔いてもいくのだ。それはかなり臭いし、今度はハエが集まり始めた。しばらくしてアンパロばあさんから、鶏のから揚げと玉子焼きの差し入れがあった。
ありがたく賞味しながらも、アンパロばあさんが豚を持ち込む日が来はしないかと恐れているのだ。
第69回:クレブラ島