第25回:そしてハリケーンがやって来た〜その4
更新日2001/12/01
ハリケーンが去ったあと、電気が復旧したのは2カ月後のことだった。水道は3カ月かかった。道路も主要幹線開通でさえ2週間後、飛行場も閉鎖され、全面オープンしたのは3週間後である。アメリカ本土から電気工事技師やレスキュー部隊がどんどんチャーター機で着くようになって初めて復旧活動が本格化したのだ。
それまでは無法状態の中で各々が生き延びる算段をしなければならなかった。まず水道がないと恐ろしく非衛生的な状況になる。水洗トイレはすぐに使用不可能になり、バケツやプラスチックの容器で用を足すことになるのだが、あっという間に満杯になり、空き地や道端に捨てるヤカラが日増しに多くなる。旧式な「ベン壷」タイプ、「貯ウン式」のものはハリケーンのもたらした洪水で内容物が外へ流れ出し満杯になっている。いわゆる、熱帯でハエと蚊が大量発生する条件が整いすぎていた。やがて、蚊を媒介にするデンゲイフィーバーと呼ばれる、熱病が蔓延し始めた。
まともに車が走れる道路がないので、警察は動きが取れず、いわば無警察状態になった。と、それを見越すように、マフィアやギャング団、俄か泥棒集団が街を徘徊し、窃盗をやりだした。クリスとアリータのヨットは、サンファンの湾の奥深いところにあるマングローブに船体を預けるように座礁していた。そんな彼らのヨットを銃火器を持った窃盗団が襲った。
クリスは外人部隊にいたことがある元戦闘のプロなので、散弾銃ひとつで家族とヨットを守ることができたが、私たちなら到底生き延びることはできなかったろう。1回目の襲撃のあと、クリスはマングローブを刈り倒し、視界をよくするとともに、射程距離内に窃盗団が身を隠す物を一切なくすことから始めたそうだ。糸を張り巡らし、ヨットに近づく者を感知するシステムを作ったり、水中銃で救難信号灯を遠くまで飛ばせるようにしたり、アリータと2人で24時間の監視体制を取ったりしたという。まるで映画の「ランボー」の世界だ。
そして実際の銃撃戦があったわけだが、クリスに言わせれば、恐らく若いグループが面白半分に仕掛けてきただけだったらしい。「やつらはピストルやライフルを持っているだけで、戦いかたをまるで知らなくてね、やたら滅法撃ちまくるだけ。だから楽勝だった」と言う。
クリスに「ひょっとして、お前、そいつらを1人2人殺してるんではないか」と訊ねたところ、彼は妙に静かな声で「サーノ(佐野)、銃を撃つときはな、標的に照準を合わせてトリガーを絞るだけで、他のことは考えないのものだよ」と言った。
さて、私たちのヨットは、喫水線下に2メートルばかりの穴があき、コックピットの左舷が潰れた状態で、通常の海岸線から20メートルほど陸に乗り上げて横になっていた。
スコップとツルハシだけで穴を掘り、そこへキールを落とし、船を立てる作業から始めたが、古大の巨石文化を築いた人々がいかに偉大だったかを実感させられた。ヨットを水に戻すまで5日かかったが、中学校の物理の勉強がどのように役にたったかを述べるのは、この記事の目的ではない。
プエルトリコ人たちのことに触れよう。我が家にはその日から毎日朝昼晩、それもフルコースメニューが届けられたのだ。ヨット仲間や友人たち、それに日頃は挨拶を交わす程度の顔見知りまでが私たちのために炊き出をしてくれたのだ。彼らにしろ、食料の買い置きは乏しく、他人に分け与えるほど蓄えてはいないはずだし、ましてや水は貴重品だったに違いない。誰かが中心になって食事当番の割り当てやメニューを決定していたのだろう。その期間、激しい労働と素晴らしい食事で、連日3〜4時間の睡眠しか摂れなかったにもかかわらず、体調が一段とよくなり体重が増えたほどだ。
プエルトリコには、盗み、ダマシ、人を殺すようなとんでもなく悪い奴タイプとメチャクチャ親切な人との両極端がいて、その中間がいないとさえ思えるのだ。そして、私のケースでいえば、徹底的な火事場泥棒にしてやられたにしろ、その後のことを考えて、一連の出来事をプラスマイナスすれば、プエルトリコはまだかなりプラスだと思っている。
<続く>
第26回:そしてハリケーンがやって来た〜後日談