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■ギュスターヴ・ドレとの対話 ~ 谷口 江里也

更新日2019/03/28

 

第7回:私がみた最初のドレの絵

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これは私が最初に目にしたあなたの絵です。サタンがイエスを試している場面(シーン)を描いたものです。その頃私はスペインのイビサ島に住んでいて、用事があって訪れたバルセロナのゴシック街の、ふと目が留まった骨董屋のショーウインドウの中にこの絵はありました。面白い絵だなと想いました。そして同時に、ちょっとした不思議さを感じました。その絵の健康的なまでの明るさに驚いたのです。

なにしろ、そこから石造りの建築の間の細い道を200メートルほども歩けば、バルセロナの旧市街の中心にそびえる荘厳な大聖堂(カテドラル)があり、中に入ればステンドグラスをはめ込んだ堅固な石の壁と柱に支えられた薄暗い空間に、金色に輝く祭壇や巨大なパイプオルガンがあり、壁には、いたるところに十字架に磔(はりつけ)にされた血みどろのイエスや聖人たちの絵や彫刻が飾られています。その下には信心深い信者たちによって灯された無数のロウソクの光が揺らめき、そんな薄明かりのなかでひざまづく人々の姿があります。

そんな静粛な空気が沈み込むようにして漂う大聖堂の空間やそこに飾られている絵や彫像の重々しさに比して、その絵はあまりにも軽やかでした。描かれているのは明らかに、荒野で四十日の断食を終えた後、空腹を覚えたイエスのところに悪魔(サタン)が現れ、もしもお前が神の子なら、この石をパンに変えて食べたらどうだと言い、さらに、もし俺を崇めるなら、この世の栄華の全てをお前に与えようと言う場面。

通常であれば醜く、あるいは恐ろしげに描かれるべきサタンが、ここでは筋肉質で無駄な脂肪など微塵もない見事な体躯の、まるで健やかなアスリートのようにかっこよく描かれています。

対してイエスは、神の子であることを示す後光が頭部からかすかに放たれてはいるものの、その表情は極めて人間的で、まるで悪魔の誘いの言葉に困惑しているかのよう。

構図は全体的に無駄な描写を一切省いた、爽快感さえ漂う大胆でダイナミックなものです。

しかし考えてみれば、これは新約聖書の中でも極めて重要で重々しい場面です。なのに、ここではそれがまるでサタンが仕掛けたゲームか何かのように描かれています。これは一体全体どうしたことだろうと、考えれば考えるほど奇妙に思わざるを得ませんでした。

重々しい石造りの街の中で、不意に私の心に突き刺さり、無意識のうちにも私の中の何かを覚醒させたこの絵こそが私が初めて見たあなたの絵でした。この画家のことが気になった私は、画家について調べ、それがギュスターヴ・ドレという名前の十九世紀の画家であることを知り、機会あるごとにあなたの版画を積極的に蒐集することになったのでした。

すぐに私は、あなたが西欧で最も重要な、というよりキリスト教はもとより旧約聖書を原典とするイスラム教のクルアーンへの影響などを考えれば、世界で最も重要な、世界中に浸透した価値観の礎となった『聖書』に対して、228点もの挿絵を施した画家であることを知りました。なんと大胆な、と思わざるをえません。何しろ題材は神の言葉を記したとされる『聖書』です。

それまで聖書の場面を絵にした画家は数多くいたとはいうものの、聖書の重要な場面をことごとく描くというのは、普通に考えればあまりにも怖れ多いばかりか気が遠くなるほどの作業量です。しかもあなたは『聖書』の冒頭に、次のような絵を描きました。

旧約聖書の創世記の、神が「光よあれ」という言葉を発して天地に光をもたらし、天地を創造する場面ですが、そこには神が人間のように描かれています。
しかしユダヤ教においてもキリスト教においても神の姿というのは描いてはならないことになっています。キリスト教ではイエス・キリストや聖人の絵はさかんに描かれますが、それはイエスが神の子であって神自身ではないからです。

天地が神の言葉から始まるとことが象徴しているように、旧約聖書の神(ヤウエー)が重視するのは言葉であって、旧約聖書は神の言葉を記した書物にほかなりません。


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言い方を変えればこの神は、言葉によって表現された神であって、絵に描いたり彫像にしたりなど、目に見える形状として絵に描いたり彫刻に彫ったりできるような存在ではないのだということです。

この神が自らを信仰する民に求めることは、あくまでも神の存在そのものとその言葉を信じること、その言いつけを守ることです。したがってこの神は、民が偶像を拝んだりすることを固く禁じています。それを受けてイスラム教のモスクには、図案化された言葉はあっても絵や彫像はありません。キリスト教でも、神そのものの姿を描くことはタブーとされてきました。

なのにあなたは、あっけらかんと球形の地球を描き、雲の上に立つ神の姿を人間の老人の姿で描きました。当時の人々、とりわけ信心深い人々は、この前代未聞の神を畏れぬ荒技に仰天したでしょう。

旧約聖書を読めば、混沌としたカオスから天地を創り水を空の上と下とに分け、太陽や月や植物や魚や鳥や獣たちを創った神は、六日目に「我らに似せて人間を創ろう」と言っているわけですから、人間の姿で描いたとしても不思議はなく、だからあなたは素直にそうしたともいえますけれども、しかし、タブーというのはいつの時代でも理屈を越えたものです。時を超えて存在し続けてきたタブーであればなおさらです。

あなたの聖書は、十八世紀から続く老舗の出版社を経営していたアルフレッド・メームによって1866年に出版されました。

あなたから話を持ちかけられた彼は最初、そんなものを出版するには二十万フランもの大金がかかるからと渋ったのですが、コストのことばかりではなく、彼の心の片隅には、そんな大それたことをしても大丈夫だろうかという不安もあったでしょう。

しかし出版されるやいなや、あなたの聖書は大評判となって、イギリスやスペインやイタリア、さらにはアメリカなどでも出版されました。しかしそうなると当然、あなたのあっぴろげな表現を非難する人たちも現れます。そんなことで聖書の出版の話が取りやめになったりなどすれば大損です。

そんなわけであなたは、後刷りの版からは神の姿を削り取って光の塊にしています。考えてみればこれもまた、削ってしまえば文句はなかろうとでも言いたげな大胆極まる処置で、あなたの気質がうかがえます。


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神の姿を描いたものとしてはもう一点、『アダムとエバの創造』の絵がありますが、その絵のなかの神さまも同じように後の版では光のかたまりにされています。


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十九世紀のヨーロッパ人ですから、あなたは一応クリスチャンではあったのでしょうが、しかしあなたの絵にはいわゆる宗教臭さのようなものがありません。無宗教とでも呼んだ方がいいくらいのニュートラルさが、あなたの聖書には漂っています。

聖書であれ神であれ聖人であれなんであれ、あなたにとってはみな、絵を描くための画題(テーマ)に過ぎなかったということなのでしょう。

私が最初に見たあなたの絵に感じた不思議な感覚は、多分そこからくるものだったと思われます。何しろヨーロッパには、そこら中にいかにも宗教的な絵が溢れていて、というより、絵画はキリスト教にとって長い間、大聖堂と同じように、言葉で記された聖書の世界や物語に、リアリティや荘厳さを与える役割を担い続けてきたのですから。


-…つづく

 

 

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谷口 江里也
(たにぐち・えりや)
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本や歌や建築、さらには自治体や企業のシンボリックプロジェクトなどの、広い意味での空間創造を仕事とする表現哲学詩人、ヴィジョンアーキテクト。
主な著作に『鏡の向こうのつづれ織り』『鳥たちの夜』『空間構想事始』『天才たちのスペイン』、主な建築作品に『東京銀座資生堂ビル』『ラゾーナ川崎プラザ』『レストランikra』などがある。
なお音楽作品として、シンガーソングライター音羽信の作品として、アルバム『わすれがたみ』『OTOWA SHIN 2』などがある。

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バックナンバー

第1回:ドレが描いた最初の絵
第2回:アリとキリギリス
第3回:才能と表現力の告知
第4回:自ら切り拓いた道
第5回:幻想の共有
第6回:ドレの肖像写真

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