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■鏡花水月 ~ 私の心をつくっていることなど

更新日2020/06/04

 

 

第5回: 緑の海のキリギリス


あれは何歳くらいの頃だったのだろう。夏の暑いさかりによく、自分の背丈より高く伸びた草むらに分け入ってキリギリスを捕った。そのことを想い出すたびに、その時の、四方を草に囲まれた、緑の海のような空間に立ちこめる草の匂いと、あちらこちらから聞こえてくるキリギリスの声が私を包む。

先日も、アトリエの駐車場の横に生い茂る草の中で鳴くキリギリスの声を耳にした時、そんなシーンを想い出した。しかし、草の高さは私の腰の高さよりずっと低く、キリギリスの声もその中の、どこか下の方から聞こえてきた。

つい二日ばかし前にも、電車が走る線路をのせた高い土手に沿った、駅に向う道を歩いている時に、土手に生えたススキの中からキリギリスの声が聞えてきた。その時も、ふっと草の匂いが一瞬、私を包み込んだような気がしたが、見ればススキは、ずいぶんと伸びてはいたけれども、それでも、せいぜい私の腰が隠れるほどの高さだった。

 

想い出せば、幼い私を取り巻いていた草の高さは、私の頭の高さより、もう一つ頭をのせたほど高く、草の葉の透間から、とぎれとぎれに空が見えた。見上げれば空は青く高く、草の中で私は、なぜか急に心細くなったりした。しかしそれでも近くでキリギリスの声がすれば、私はふたたびキリギリスを求めて生い茂る草の中を進んだ。

発見したキリギリスはなぜかいつも私の目の高さとほとんど同じ位置にいて、ほんの少し先にある草の茎につかまって鳴いていたが、近くに聞えるその声は、私の耳を一杯にしてしまうほど大きく、その響きが、草に囲まれた小さな空間に溢れた。手を伸ばしてキリギリスを捕まえれば、もちろん鳴き声は止んだはずだが、そのようなことは何も覚えていない。私が覚えているのは、私の指の中でもごもごと、小さなハサミのような緑色の口を動かすキリギリスの顔だ。

私はそれをカゴに入れ、元気があれば、もう一匹のキリギリスを目指し、そうでなければ、緑の海から出て家に帰った。

一人遊びが嫌いではなかったとはいえ、どうして幼い子どもが夏の暑い盛りに、そんなふうにたった一人で息をひそめて、わざわざ自分の背丈よりも高い草むらの中に分け入り、湿度の高い、いま考えればむっとするような熱気のなかで息をひそめてキリギリスを捕ったりしたのだろう。誰かに連れられて、同じようにキリギリスを捕ったりしたことでもあったのだろか……。

けれど、それにまつわるかもしれないことの一切は、川の水が、いったん海に流れ込んでしまえばもう、どの水がどの川から流れてきた水なのかが分からないように、すべてが混ざりあって、私の記憶の茫洋とした海の中に溶けてしまっている。

ただ確かなのは、そうやって息をひそめ、声をたよりにキリギリスに近づいて行く時の緊張感や、鮮やかな緑や、耳に痛いほどに響くキリギリスの声や、その一瞬の、音や空気などの一切が一体となってつくりだしていた空間やその気配が、思い出そうとしさえすれば今でも活きいきと蘇ってくるということだ。

もちろん、そんなイメージの中の空間が、幼い私がその時に触れあっていた空間と同じものだとは思わない。それはきっと、時を経ていつのまにか形をゆるやかに変えてきただろう。あるものは強調され、あるものは消え、そしてもしかしたらあるものは、鮮明さを増しながら私と共に、ある意味では一緒に育ってきたともいえるだろう。

 

いつも想うことだが、私を取り巻く三次元の物理的な空間や、ありのままの事実や現実がどうであり、あるいは過去が実際どうであったかということと、さまざまなイメージが重なり合いながら常に私と共にある、私が現に生きている空間とは違う。それはいつでも、言葉や感触や音や時間や情緒や気配などを融かしこんだ、具体的な時や場所を超えて自在に交差し行き来できる多次元の空間であって、そこでは、一瞬のうちに過去に戻ることも、まだ見ぬ未来に行くことも可能だ。というより、大げさな言い方をすれば、ある意味ではそれが私の命をかたちつくっているともいえる。つまり私とは、私と共に在るイメージの総体であって、私の肉体が消えれば、それは私と共に消える。けれど、私の命が在るかぎり、全ては私と共に生きていく。

だからあの緑の海のキリギリスたちは、普段はどこにいるか分らないけれど、それでも常に私の中に生きていて、私という空間をかたちつくっている。そしてそのキリギリスたちは、何十年も前に、おそらく私の虫かごの中で、もしかしたらキュウリを抱えながら死んだであろうキリギリスではなく、あくまでも私と共に生き、そしてこれからも生き続けて、確かな響きを、ときおり私の耳に届けてくれる生きたキリギリスたちなのだと思う。

そう思うと、緑の海の草の匂いも、その中で草と同じような色をして鳴くキリギリスも、口をもごもごさせているキリギリスのこともみんな、なんだか愛おしく想えてくる。そして無数の、私と共にあるイメージたちのこともまた……

 

-…つづく

 

 

 

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谷口 江里也
(たにぐち・えりや)
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本や歌や建築、さらには自治体や企業のシンボリックプロジェクトなどの、広い意味での空間創造を仕事とする表現哲学詩人、ヴィジョンアーキテクト。
主な著作に『鏡の向こうのつづれ織り』『鳥たちの夜』『空間構想事始』『天才たちのスペイン』、主な建築作品に『東京銀座資生堂ビル』『ラゾーナ川崎プラザ』『レストランikra』などがある。
なお音楽作品として、シンガーソングライター音羽信の作品として、アルバム『わすれがたみ』『OTOWA SHIN 2』などがある。

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