方丈記 第五回
そのころ、たまたまの用事のついでに、新しい都が置かれた摂津の国に行ってみた。その様子はと言えば、都にするには土地が狭く、区切ってみれば、平安京のように九条の区画をつくることはできず、北には高い山があり、南はすぐに海になってしまうので、いつも波の音が聞こえてうるさく、潮風も激しい。天皇の御殿である内裏は山の中の丸太造りで、むかし天智天皇が皇太子の時に造られたという御殿も、あるいはこのような感じのものだったのかとも思われて、それなりに優雅なものではあった。もとの都では、毎日まいにち家を壊して、その木材をどんどん、川が船でいっぱいになるほどの数の川船に積んで運び出していたが、その木を用いて造った家はどこにあるのだろう。そこやかしこに空き地が目だち、その材で造ったと思われるような家は少なかった。
そんなわけで、この新しい都にやってきた人はみな、浮雲のような、これからどうなるかも分らない、たよりない気分でいて、もともとこの地で暮らしていた人たちは、自分たちが住んでいた場所を奪われてしまったことを憂い、新たに移ってきた人たちも、土木工事に駆り出されて苦労しなくてはならないことを嘆いている。道行く人を見れば、本来ならば牛車に乗るべきような人が馬に跨がり、最も大切な時に身に着ける束帯(そくたい)ではなくとも、せめてそれに次ぐ正装である衣冠(いかん)を着なくてはならないような人が、まるで庶民が着るような直垂(ひたたれ)をまとっていたりする。都の習わしもすっかり変わり、まるで田舎の武士のようないでたちの者ばかりだ。
こうした風俗風習の乱れは世の乱れの兆しともいうけれども、日ごとに、なんだか世の中が浮き足立って、人の心も落ちつきを失っているように見えた。こうした民の憂いや嘆きが、ますます現実のものとなってきてしまったので、春に遷都したばかりにもかかわらず、同じ年の冬には、再び都が京に戻ることになった。
しかし、いったん壊されてしまった家々がどうなったかといえば、何もかも元のように作り直すことなどできるわけもない。昔、賢い方々が世を治めていた頃には、憐れみの心を持って国を治められたものであり、御殿を造るにあたっても、屋根に葺いた茅の端を綺麗に切りそろえたりなどしなかった。庶民の家々から立ち上る煙が少なく乏しく見えるようであれば、決められた良の貢ぎ物を納めることさえ免除されたりもした。こうしたことはみな、民に恵み多かれと思うお気持ちの表れであって、世の中を救い助けてこその治世と、考えておられたからにほかならない。今の世のありよう見れば、それとは、まったく比べようもないということが良く分かる。
※文中の色文字は鴨長明が用いた用語をそのまま用いています。
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