方丈記 第十八回
(最終回)
そもそも、わたしの人生そのものが、あたかも月影が東から西へと傾き、いよいよあともう少しで、山の向うに沈んでしまい、もうすぐにでも、三途の川の向うの、現世に犯した罪によって、いろんな責め苦を受ける闇の中へと行こうとしているような時に、あんなことさえしなければと思ってくよくよ考えたり、誰のせいでそうなっただのと、いまさら、つべこべ思い悩んでみたところでどうなるものでもない。仏の教えというものの趣意は、つきつめれば、どんなことに対しても執着するなということであってみれば、こうして私が今、この草庵を愛するのも、ここでの静かな侘ずまいがいいと想うのも、どのみち罪であるにはちがいない。
だとしたら、特にそうする必要もない、こうした閑寂(かんじゃく)の楽しみを、あえて書き記したりする時間というのも、往生ということを考えるならば、余計なことには違いない。
静かな、夜が明け始める暁の頃に、こうした理屈のようなことを考え、自らの心に問いかけ続けてみた結果、世間を離れて山の中に入ったのは、自分自身の乱れた心のありようをなんとかしようという、修業の道にはいったつもりであったはずだけれども、考えてみれば自分は、確かに身なりは粗末で、まるで聖人のようにも見える姿をしているけれども、いまだにこの世のことで心は濁(にご)り汚れて、この栖(すみか)も、お釈迦様のお弟子の、もともとは豊かな身分であった浄名居士(じょうみょうこじ)が暮らしていたといわれる、一丈四方の庵をまねたものにほかならない。そのわりには、そうして得したものというのは、同じくお釈迦様のお弟子のなかで、もっとも愚かで学びが遅かったと言われている周利槃特(しゅりはんどく)の行いにさえ遠く及ばない。
もしかしたらこれは、自分の貧賎の報いで、こんなにも悩みが多いのかもしれないし、あるいはまた、迷ってばかりいる妄心が過ぎて、頭がちゃんと働かないということなのかもしれないと思ったりもするけれども、だからといってそれで納得するでもなく、それ以上、自分自身の心に問うてみたところで、答えのようなものに行き着くわけもない。ただ、そんなことなどを想いながら、目、耳、鼻、舌、身、意の六根のうちの一つの舌根(ぜっこん)をつかって、不請阿弥陀仏(ふしょうのあみだぶつ)と、念仏を二三度唱えて、それ以上考えるのは、やめてしまった。
時に、建暦(けんりゃく)二年、弥生(やよい)の晦(つごもり)の頃、
桑門(そうもん)の蓮胤(れんいん)が、外山(とやま)の庵にて、これを記す。
方丈記。
※文中の色文字は鴨長明が用いた用語をそのまま用いています。
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