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■イビサ物語~ロスモリーノスの夕陽カフェにて
 

第56回:ルーシーさんと老犬アリスト

更新日2019/02/21

 

シーズンオフの冬場、数年間ルーシーさんが老犬アリストの世話をしてくれた。アリストはこのロスモリーノス界隈では知らぬ者がいない有名な犬だったし、私もアリストを鎖で繋いだことがなかったから、アリストは一種の共同体の犬と言ってよいと思う。アリストの方もいたって自由気ままにあちらこちら歩き回り、馴染みの家に出入りしていた。

アリストの正確な年齢は分からないが、おそらく15歳にはなっていたと思う。口の周りが白くなり、毛の艶もなくなり、汚れたベージュ色になっていた。それに老犬臭とでも言うのだろうか、いくら洗ってやっても腐った肉のような匂いが取れなくなっていた。

また、ボクサーの常とはいえ、口の脇から垂らすヨダレの量が半端でなくなり、それを頭をブルブルっと振ることで周囲にまき散らすのだ。私の部屋の壁はアリストのヨダレマークが点々と付き、毎年のように白壁を塗り直さなければならなかった。

そんな、汚れた、臭い老ボクサー犬、アリストをルーシーさんはとても可愛がってくれた。

その年も10月末に『カサ・デ・バンブー』を閉めると、私はアリストをルーシーさんに預け、アイルランド一周の旅に出掛けたのだった。

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アパートの前に佇むボクサー犬アリストテレスの勇姿

翌年の3月初め、イビサに帰ってきたところ、いつもなら、ないシッポだけでなくお尻を思いっきり振って歓迎してくれるはずのアリストが来なかった。ルーシーさんのところに、お礼方々、またアリストのベッドである大きな丸いバスケットを引取りに行ったところ、いつもなら開け放しているはずの西に面したパティオ(小さな庭)へ抜けるフレンチドアに木製のブラインドが降りたままになっており、アリストのベッドであるバスケットもなかったのだ。

ルーシーさんに何か起こったことは間違いないと、このアパート群の持ち主であるロセージョ氏のところに行き、ルーシーさんが急に亡くなったことを知ったのだ。 

持病の心臓の具合が悪くなり、ルーシーさんは社会保障病院へ運ばれ入院したが、3、4日で消え入るように亡くなったということだった。ルーシーさんの亡骸は日当たりの良い緩やかな傾斜地にあるイビサ市の墓地に葬られた。私は庭から切り取った花束を、小さな墓石の上に置いた。

ルーシーさんが亡くなったのは1月の半ばのことで、それからアリストが毎日私のアパートのドアの前にうずくまっていたと、私の上階に住んでいるギュンターが教えてくれた。それを見ていたなら、どうしてアリストに水と餌をやってくれなかったのだ…と、後でギュンターを恨んだことだ。

イビサに戻って数日、ルーシーさんの墓を探したりで、アリストが行方不明になったことはそれほど気にしていなかった。それまでもアリストはよく消え失せた前科があり、2、3日、長い時には5、6日も経ってから、痩せ細り、ますますボロボロになり、噛み傷を作って帰ってきたことが何度もあったからだ。

私の元に帰ってきて、消耗した体力を回復するため、ただひたすら寝ると食う以外に体を全く動かさない日々を過ごしたものだった。だから今回も、強烈なフェロモンを放つメス犬を追いかけて、存分にやりまくっていると楽観していたのだ。

それに第一、アリストは『カサ・デ・バンブー』のあるロスモリーノス地区だけでなく、イビサの町、新市街、旧市街、それに観光ホテルが立ち並び始めたフィゲレータス地区、デンボッサ海岸と広い範囲から自分の棲家へ帰ってくることができるし、幾度となく、そんなことがあったのだ。だから、アリストが生きていれば、誰かが鎖に繋いでいない限り、必ず帰ってくると思っていたのだ。ヨレヨレの老アリストを鎖に繋いで飼う物好きがいるとも思えなかった。

ところが、2週間、3週間経ってもアリストは帰ってこなかったのだ。まだ『カサ・デ・バンブー』を開くシーズン前だったので、私は写りの悪いアリストの写真をポケットに、アリスト探しを始めた。この界隈ではアリストは有名な犬だったから、アリストの名を出すだけで、「そう言えば、しばらく見かけないな~」と判で押したような答えが返ってくるのだった。

あれほど年老いた臭い犬をワザワザ誘拐し、世話する物好きがいるとも思えなかったが、捜索範囲を拡大し、サン・アントニオ、サンタ・エウラリア、サン・ホセ方面にも足を伸ばし、イギリス人老夫婦がやっているアニマル・シェルターにも行てみた。

ひと月もそんなことを続けただろうか、どうにもアリストは野垂れ死にしたに違いないと諦めるよりほかなかった。アリストはルーシーさんが死ぬと同時に、ロスモリーノス地区、『カサ・デ・バンブー』から消えたのだった。自分がその冬イビサに残らず、旅に出たことにいくばくかの後悔、自責の念が残った。どうしようもないことだったと自らを慰めようともしたが、夜、バールをハシゴして、朝方にバラ・デ・レイ通りのカフェテリアに陣取り、新聞を広げる時、顔見知りは決まって、「オヤ? 今日はアリストはどうしたんだ?」と尋ねるのだった。私にしても、足元に年老いたアリストがいないことに寂寞とした思いが広がるのを抑えることができなかった。

その春先のことだった。これがアリストと同じボクサー犬かと見紛うばかりの若いボクサーが『カサ・デ・バンブー』に迷い込んできたのだ。その姿勢、ツヤツヤと輝くばかりの茶色の毛並み、素早い動き、どれをとってもアリストとは似ても似つかない美しさなのだ。首輪は付けていなかったが、これだけ若く、おそらく血統書が付いているであろうボクサーに持ち主がいないわけがなかった。

奇妙なことに、私によくなつき、買い物に付いてくるだけでなく、私のアパートにも入り込み、私のベッドの脇の床で寝たのだった。餌をやるとそのまま居付いてしまうので、水だけ与えたが、『カサ・デ・バンブー』では客がテーブルから盛んに食べ物を与えるので、私の持ち主に対する気遣いは無駄だったかもしれない。

私は勝手に“アリスティート”(小さなアリスト)と呼び、知り合いも、「アリストの息子か? アリスト二世だな」と存在を認め始めたのだった。私も、このままアリスティートが居座るなら、持ち主には悪いが、アリスティートがそのつもりなら、それでも良いかと思い始めていたのだった。 

ある朝、アパートのドアを強烈な勢いでノックする、というより叩きつける音で眼を覚まされた。アリスティートはすでに立ち上がり、ドアに向かって吠え始めた。寝ぼけ眼でドアを開けると20代の屈強な男が二人、今にも私に殴りかからん勢いで、「お前か、犬泥棒は。警察に訴えてやる…云々」と口汚い罵詈雑語を浴びせてきたのだ。

私はそのような相手に素早く対応し、言葉を返すほどスペイン語が達者でないし、そんな性格でもない。私の日本人の友人で、憤るとその分だけ口が回るようになるのがいる。よくぞマアー、スペイン語が次から次へと出てくるものだと呆れるばかりなのだ。私の方はと言えば、後からこう言えばよかった、ああ対応すべきだったと悔やむばかりで、全く駄目だった。

二人のマッチョに対し、私はただ呆然としていただけだったと思う。彼らはスペイン語も満足に解らないヌーボーとした東洋人を相手にしても始まらないと判断したのだろうか、思う存分汚い言葉を吐いて満足したのだろうか、ようやく引き上げていった。アリスティートの方は、彼らの足元を潜り抜けるように姿を消したのだった。それがアリストの再来? アリスティートを見た最後だった。

この顛末をイビセンコの友人のぺぺに語ったところ、そのマッチョたちは冬場に投げ捨てられるように飼い主が置き去りした犬、主に血統書付きの犬を集め、春先に売るようなショーバイしている奴等だと教えてくれた。また、彼らはブリーディング、犬を掛け合わせ、子犬を産ませ、売ることもやっていたようだった。

“ディアリオ・デ・イビサ”(Diario de Ibiza:イビサ毎日新聞)に“子犬売りたし”の広告がたくさん出ており、ボクサーはギョッとするくらいの高値で売りに出ているのをその後見つけた。彼らにとってアリスティートは大きな金蔓、商品だったのだろう。

ルーシーさんとアリストは、ロスモリーノスから同時に去っていってしまった。

私のアパートのドアには、アリストが早く開けろとばかり引掻いた傷跡がくっきりと残っている。

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ロスモリーノスの海岸に咲くサポテンの花

-…つづく

 

 

第57回:オッパイ・リナの大変身

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佐野 草介
(さの そうすけ)
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海から陸(おか)にあがり、コロラドロッキーも山間の田舎町に移り棲み、中西部をキャンプしながら山に登り、歩き回る生活をしています。

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