第59回:“ディア・デ・マタンサ”(堵殺の日) その1
今でこそ冷蔵庫のない生活は想像もできないが、イビサでは、私が住み始めるほんの十数年前まで、田舎にはまだ電気が届いていなかった。私が初めて島を訪れた時ですら、電気のない家は珍しくなく、チョット町から外れた田舎では、ケロシンランプ、ローソクだけが光源の生活をしていた。それがまた我らがヒッピー世代にウケ、片田舎の電気なしの家をバカ安値で借り、田舎暮らしをしている若者同胞が結構いたものだ。
電気なし、冷蔵庫なしの時代は何千年も続いていたのだから、当然、食料の保存方法は工夫され、それなりに豊かだったのだろう。食料はすべて乾燥させるかオリーブ油に漬ける、塩漬けにして保存していた。あとは、豆、麦、米が主だったのではないか。イビサは季節ごとに採れる野菜は異なるが、一年中何らかのミドリを畑から得ることができるし、小魚は年中獲れる。鶏はそこらじゅうを走り回っているし、卵を産んでくれる。とは言っても、この小さな乾燥した島で養える人口は限られていたのだろう。
何と言っても、肉に対する嗜好、愛着が強く、肉類の貯蔵法を工夫したのだろう、生ハム、腸詰めの類が地方ごとに無数にあり、生ハムにしてから、ハブーゴ(Jabugo;ウエルバ県)だアルプハーラ(Alpujarra;グラナダ県)だ、いや最近はアラゴン(Aragón;アラゴン州)の方が美味しい、いやナヴァーラ(Navarra;かつてのパンプローナ県)が良いと、口うるさく、年代モノのワインのようにハブーゴとレッテルが貼られただけで、異常な高値になるのだ。
アンダルシアはシエラネヴァダの山村で育成される黒豚、しかも放し飼いにされ、そこいらに生えているペジョータ(bellota;ドングリの一種)の木から落ちる木の実を拾い食べている豚の生ハム(ハモン・デ・ベジョータ・イベリコ;Jamón de bellota ibérico)が最高とされ、豚の足1本をリュックサックに詰めて、パリに持って行って売り払えば一夏の旅費を浮かせることができるとさえ言われていた。イタリアのバックパッカーがシチリアのパルメザンチーズをフランス、イギリスに持って行ったのと同じだ。
San José サ・タラヤ地区の教会
イビサの朋友ぺぺの実家で豚を潰すから来ないかと誘われ、一も二もなく応じた。冷たい北西の風が吹き始めた11月の終わりか12月に入ってからのことだったと思う。
ぺぺの実家はサン・ホセ(San José;イビセンコではSant Josep de sa Talaia)の森の中にあった。親父さんは腕の良い左官で、建設ブームのイビサで引く手あまたの売れっ子だった。ペペの親父さんはオンボロのルノー・クワトロを転がし、島中の仕事をこなしていた。イビセンコが森に棲みたがる志向は彼らの本性と呼びたくなるほど強く、小銭を貯め、森の土地を買い、そこに小屋を建て、引退するのが理想的な生き方になっていた。
ペペの親父さんも「ペペ」なので、至って紛らわしいのだが、ここでは親父さんで通すことにする。親父さんは、少しずつ近隣の土地を買い増し、車がどうにか入れるような道を切り開き、居間兼台所一つ、寝室一つ、トイレは貯ウン式の別小屋、水は屋根からの雨水を集め地下に溜めるシステルナ(cisterna;貯水槽)のための森の小屋を建てたのだった。もちろん、電気はきていない。
豚小屋は腰の高さに石を積み上げ、囲っただけのもので、三つ、四つの仕切りが、これもまた石で区切ってあった。一つには母親豚がごろりと横になり、ピンク色の7、8匹の子豚が争うようにオッパイにしゃぶりついていた。ほかの5メートル四方もない仕切りには、母親豚よりかなり大きい去勢豚が2、3頭づつ押し込められていた。
その日に犠牲になるのは、大きな去勢豚が2頭で、親父さんによれば、そのうちの一頭は何にでも齧りつく癖の悪いヤツだということだった。
うっかり、どうやって去勢するのだと訊いてしまった。親父さんはニヤリと笑い、「キンタマの袋をカミソリで切り、後はそこにムシャブリツキ、歯でシゴクようにタマを抜くのが一番だ…。どうだやってみるか…」と誘いをかけられたのだ。イビセンコ特有の外国人をカラカウ冗談だとばかり思っていたところ、本当に去勢はそのようにするということが分かり、慌てて去勢のご招待は遠慮したことだ。
“ディア・デ・マタンサ”(Un día de matanza;堵殺の日)はイビサだけでなく、アンダルシア、カスティージャ、スペイン中のどこの田舎でも、とても大切な秋、初冬の行事になっている。また、その行事に招待されることは、非常に名誉なことだと後で知った。というのは、その日だけは、新鮮な肉を食べ放題、好きなだけ食べることができるからだ。
Un día de matanza;堵殺の日、イビサの他の地区での参考写真
どうして豚が自分の運命を知るのか、全く不思議なことだが、“デイア・デ・マタンサ”の朝から、殺される豚は異常な鳴き声でわめき立てる。それに呼応するように、他の豚もキイキイと鳴き始める。この異様な予知能力は豚を殺したことがある人、またはその現場にいたことがある人なら誰でも経験することなのだそうだ。
朝早くから、人が集まり、大きなかまどに火が入れられ、大きな調理台になるテーブルを丁寧に洗い、豚の足を縛り付ける頑丈な鉄パイプが持ち出され、そんな普通でない雰囲気を豚が感じ取るのではないかとも思うが、ペペによると、そんな準備を始める前、ほとんどその前の晩から、豚は鳴き始めると言うのだ。
殺される豚は300キロ(ペペの親父さんの推定で)ほどの大きさだ。狭い囲いの中で逃げ惑うのだが、まず足環をかけ、四足を縛り動きを止める。どうにも西部劇のカウボーイが投げ縄で牛を押さえ、焼印を押すとか、ロデオ、闘牛に比べるべくもない、至ってスマートならざる死刑執行なのだ。
親父さんが囲いの中に入り、おそらく自分の仕事で使う、石を切るための重そうな片手ハンマーで豚の鼻と目の間の急所を一発振り下ろし、豚は全身が痙攣したように引きつらせ、昇天した。この的を外さない一発が肝心で、これを上手くやらないと、豚が暴れ凄惨なことになる…と教えられた。
引きつったように死んだ豚の口に横木をかませ、細引きで口をグルグル巻きにして縛るのは、もう死んだと思っていた豚が突如噛みつくことがママあるからだそうだ。豚は身体も、脳も死んでも、口だけは生きている…と彼らは言うのだ。
そして、縛った前足、後ろ足の間に鉄パイプ通し、駕籠カキよろしく、前後二人づつで担ぎ上げるのだが、その駕籠カキの一人として召集され参加した。なるほど、300キロというのはホラではなく、グイと私の肩に食い込む重さだった。それはまだ良いのだ。その時、私は白い運動靴を履いていたのだが、足元が豚の糞と小便、泥が渾然一体となっていることに注意を払わなかったのだ。
豚の囲いに足を一歩踏み入れた時、“アリャ…”と思い、足場の悪さに気が付いたのだが、その場でヤーメタ…と引くのも格好がつかないし、ママヨとばかり踏み込んだのだった。自分一人の体重だけの時はまだ良かったのだが、駕籠カキになり、豚の重さが私の肩から足に掛かってきた時、運動靴が完全に埋まり、クルブシまで沈んだのだった。道理で皆ゴム長を履いているわけだった。
豚を血抜きのため逆さに吊るしてから、ペペの妹が笑いながら、バケツ一杯の水を持ってきてくれた。だが、そんなことで黄土色に染まった靴が白くなるはずもない。色はまだ良いのだが、臭いが取れないのには参った。アパートに帰ってからも、部屋中、豚のウンコ、オシッコの臭いが充満し、靴を外のテラスに出さなければならなかった。結局、その靴は捨てることになった。
ぺぺやイビセンコたちは、今年の流行色は決まりだな、色だけでなく臭い付きの黄土色だと笑っていた。
-…つづく
第60回:“ディア・デ・マタンサ”(堵殺の日) その2
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