第26回:お祖父さんの死更新日2006/08/24
夏休みに従兄弟たちは、全員集合よろしくお祖父さんの農園に集まり、長い休みを満喫したものです。男の子たちは牧舎の二階、牧草が積み重ねられている一角を平らにしてベッドにし、枕を並べて眠り、女の子は藁(ワラ)を詰め込んだマットレスをポーチに持ち出し、蚊帳を吊りそこで寝ました。数えてみると13人の従弟、それに叔父さん 叔母さんたちを加えると総勢20人内外がお祖父さんの狭いキャビンを中心に夏を過ごしていたことになります。
暑い盛りの午後4時頃でしたでしょうか、女性軍が軒先の日陰で涼んでいたとき、従兄弟の中では最年長のラッセルがトラクターを一人で運転して、母屋へ向かって、まさに突進してきたのです。ラッセルは13歳になったばかりでその夏、初めてトラクターの運転を教わり、どうにか操れるようになったばかりでした。
日陰でくつろいでいた私たちは申し合わせたように一斉に立ち上がり、「ラッセル、ストップ! ストップ、エンジンを切って! ブレーキを踏んで!」と叫びました。トラクターは急激にガクンと止まり、ラッセルは前に投げ出されようにトラクターから飛び降りてきて、グシャグシャに泣き崩れた顔で、お祖父さんがサイロから落ちて死んでしまったと告げたのです。
ヴェルマーおばあさんは、すぐさまトラクターの運転席に上りサイロに向かいました。先進的な意見のつもりだったのでしょう、おばあさんはこれからの女性は、車、トラクターの運転ができなくてはならないし、男性も料理ができなくてだめだと、常々言っていました。私たち子供は、「おじいさん、死なないで!」と口々に叫びながら一斉に駆け出したのでした。
私たちがサイロにたどりついたとき、ウイルカーおじさんがお祖父さんを抱きかかえるように膝まづいているところでした。お祖父さんの首はダラリと下がり、子供の目にも首が折れてしまったのは明確でした。でも、お祖父さんは死んではいませんでした。ウイルカーおじさんは、お祖父さん背中から肩に当て木を入れ、裂いたシーツで縛り頭を固定し、トラクターの後ろにつないだトレーラーで母屋までお祖父さんを運んだのでした。
町のお医者さんが来て、すぐに入院する手続きを取ったのはそれから3時間も経ってからでしょうか、ヴェルマーおばあさんとウイルカーおじさんは一緒に病院へ行き、残された子供たちは砂を噛むような晩御飯を摂ったのです。
その夜遅く、ウイルカーおじさんがお医者さんの車で送られて帰ってきて、お祖父さんの首は完全に折れ、神経も崩れてしまっているのでいつまで生きるか神様だけがご存知の状態であること、万が一生き延びても、重い障害が残り、自分で歩くことも食べることもできないことなどを伝えたのでした。
お祖父さんはその後意識は取り戻したものの3週間後、病院でそのまま息をひきとりました。おばあさんの話では車椅子で庭に連れ出したところ、気持ちよさそうに微笑み、小鳥の声を聞きそれに応えるように音にならない口笛を吹いていたそうです。それがお祖父さんの最後でした。お祖父さんの魂は、自分の牧場に帰り、小鳥の声を聞いていたでしょう。
お祖父さんが亡くなる何年も前から、小さな個人規模の農園は経営が難しくなっていました。作物を大きな企業が買い取り、作付けも企業が指定してくるようになり、牛や豚の肉など飼料代にもならないとお祖父さんがこぼしていたの覚えています。小さな規模の農業に将来がないことを見越していたのでしょう、お父さんは教員の資格を取るため百姓仕事のかたわら大学に通っていました。
お祖父さんの死後、間もなく牧場は売りに出され、おばあさんは養老院に入り、私たちはカンサスシティー郊外の団地に越したのです。それは線を引いたように私の少女時代をくっきりと分けています。年数にするとたった11年間だけお祖父さん、おばあさん、ウイルカーおじさんと牧場で暮らしたことになりますが、田舎での生活は懐かしい絵物語を見るように繰り返しよみがえってくるのです。
柔らにうねった牧草畑、フェンスによじ登り見た森の向こうに沈む夕日、ウイルカーおじさんの背中に負ぶさって歩いた道、私自身が老年を迎え、ともすると薄れがちな私の記憶の中で、幼年期の思い出だけが色彩を増してくるのです。

このように夏になると親戚やお祖父さんの孫たちが
集まったものです。これでも、全員ではありません。
いまだに従弟との結びつきが強いのは、
こうして毎夏、毎クリスマスを共に過ごしたせいでしょう。
-…つづく
第27回:ウイルカーおじさんの思い出 その1

