第75回:アラン・ピンカートン登場
更新日2008/04/17
判事のシンプソンがブッチと会ったというマディークリークはワイオミング州のほぼ中央にある。列車強盗の現場、ウィルコックからユタ州のブラウンズパークを経由し、ニューメキシコのWS牧場へ南下する逃走路から大きくはずれ、北へ迂回しなければならない位置だ。シンプソン判事に会うためにそんな余計な時間と危険をブッチが犯すとは考えられない。その時すでにワイルドバンチの面々の首に各々1,000ドルの賞金が掛かっていたのだ。
当たり前のことだが、犯罪を犯した州から一刻も早く脱出するのが捕まらないための基本だ。万が一、ブッチがウィルコック事件に直接関与していなかったと仮定しても、ウィルコック事件の犯人、ワイルドバンチ・グループ、すなわち首領であるブッチ・キャサディーを捕らえるのは常套だし、ブッチ自身も自分が追われる立場に置かれていることは充分承知していただろう。一刻も早く3州協定を結んでいるワイオミング、ユタを駆け抜け、アリゾナ、ニューメキシコへ逃れようとしたと考えるのは理にかなったことだ。
ブッチがいつWS牧場に帰ったかはっきりしないが、ウィルコックから常識では想像できないスピードでニューメキシコ州のアルマに着いている。当時なら、ほとんどアリバイが成立すると言ってよいほどの、不可能に近い速さで南下している(Charles
Kelleyによる。だがWS牧場に着いた期日は明らかにしていない。WS牧場のフレンチが書いた"Further
Recollections""Some Recollections"にもブッチとエルジーがWS牧場に帰ってきた日付はない)。
ウィルコックの列車強盗現場からは例のごとくリレーの馬を乗り継ぎ飛ばしたのは間違いないが、リレー地点はせいぜい3、4箇所までしか分かっておらず、そこから先は追手の状況にもよるので、1,000キロ以上に及ぶ正確なルートをあらかじめ設定しておくのは難しい。どのようにしてブッチが長大な逃避行を速やかに行うことができたのか、論議を呼ぶところだ。
西部、取り分けロッキー山脈の西にはワイルドバンチ、ブッチのシンパやサポーターの中小牧場主がそこここに点在し、彼らがブッチ一行に食料や水、フレッシュな馬を提供していたと見るのが自然だと思っている。それに見合った以上の"お礼"をブッチは口止め料込みで支払っていたのだろう。いずれにせよ、疲れ切った馬でサンラファエルの荒地や南ユタ、アリゾナの砂漠は渡れない。

ピンカートン・ナショナル探偵社のロゴマーク。
ショーバイにロゴが必要なのは150年前の
探偵社でも変わらなかったようだ。
割に優しい目をパッチリと開け「私たちは決して眠らない」
というのがキャッチフレーズだった。
ここに、ブッチとキッズを南米まで追い詰めたピンカートン探偵社が登場する。ピンカートン探偵社は小説によく出てくる私立探偵とはおよそイメージが異なる。まだ、FBIのなかった当時、私立の探偵社は州境を越えて活躍でき、逮捕権まで与えられていた。
アラン・ピンカートンは、スコットランドからの移民で、赤貧を洗うスコットランドでの生活、炭鉱の闘争で虐殺された父親、逃げるように乗り組んだ移民船の難破、インディアンの襲撃、文字通り裸一貫からの生存を賭けたアメリカでの生活等々、彼のドラマチックな生涯は一つの劇的なアメリカ史そのままだ。
アラン・ピンカートンは辛酸を舐めた末、1840年にはシカゴ近くで樽の製造工場を営んでいた。製品の良さと納品期日を守る彼の商売はとても繁盛し、職人も多く抱え、工場も順調に広げていった。がある時、川の中州に狩猟に出かけたところ偶然に贋金造りのグループを見つけ、幾度も密かに偵察し確認した後で、シェリフに連絡した。
アランは贋金グループ逮捕にも立会い、生命が危険に犯される状況でも冷静に行動し、また観察力、判断力が抜きん出ていることにシェリフのイエーツは目をみはらされた。イエーツは盛んにアラン・ピンカートンをシェリフになるようかき口説いたのだ。「お前の天職は警察になることだ。樽屋なんかじゃない」とでも言ったのだろうか。
1840年当時、シカゴの人口は3万人で、シェリフは12人しかいなかった。今でもそうだが、昔も薄給のオマワリになり手がなかったのだろう、アランも当然、順調に発展している自分の樽製造業を捨てて、シェリフになるつもりなど毛頭なかった。だが、込み入った事件があるたびにシェリフのイエーツはアランのもとに駆けつけ、コンサルタントをしてもらったようだ。それがイエーツの手だとはアランも気付いていながら、アランはそのつど事件解決のために乗り出し、成功を収めたのだった。
アラン・ピンカートンも徐々に警察の仕事が自分に合っていることを自覚し始め、ついにシカゴのシェリフになったのだ。その年、すぐにアラン・ピンカートンが逮捕した犯罪者の数が他のシェリフたちより圧倒に多く、ナンバーワン・シェリフになったのだった。
企業家であったアランは自分の才能を会社として発展させることにした。が、当時プライベートな探偵社などは想像外のことであり、せいぜい食い詰めたシェリフ崩れが賞金稼ぎをしながら西部を流れ歩いている程度だった。それぞれの町では、税金からシェリフの給与を出し、町や村の自治を守っていたし、鉄道会社や銀行も独自の自衛手段をそれなり打っていた。私立の探偵警備会社が成り立つとは誰も想像しなかったのだ。
シカゴの保安官を4年勤めてから、1852年にアランは探偵社を創設した。アラン・ピンカートンは現金輸送と要人の警護から手をつけた。社員には高給を支払い、当時常習化していた裏金や袖の下を取ったりピンはねを厳禁し、情報は完全秘密をモットーにした。警備員、追跡者、探偵には最適な人間を高給でリクルートし、適所に配置した。
1908年代に合衆国政府がFBIを創設したとき、ピンカートン探偵社のシステムだけでなくモラルのあり方まで下地にし見習ったといわれている。アラン・ピンカートンは半世紀以上も時代を先取りしていたのだ。
…-つづく
第76回:ピンカートン探偵社

