第76回:ピンカートン探偵社
更新日2008/04/24
ピンカートンがアメリカ全土にその名を知られるようになったのは、リンカーンの警護を請け負ってからだ。大統領選挙が熾烈を極め、リンカーンが大統領に立候補するはるかに以前から、数々のリンカーン暗殺計画が持ち上がっていた。彼の身を暗殺から守ることが、北軍を勝利に導き、アメリカ分裂を避けるための鍵にさえなっていた。

中央は言わずとしれたアブラハム・リンカーン。
彼の左側に懐に手をいれているのが、アラン・ピンカートン。
1862年、南北戦争勃発後、間もないころ撮られた写真。
元樽屋のアラン・ピンカートンが大統領の
身の安全を守る要職に就いただけでなく、
戦局を握るスパイ活動の中心人物にまでなった。
リンカーンは大統領戦に勝った後も、彼の身辺警護にピンカートン探偵社を使い、アランへの信頼は篤かった。また、諜報活動の大切さをはっきりと理解していたリンカーンは、南北戦争勃発と共に自分の身の警護だけでなく、南軍の動向を探るためのスパイ活動、今ならCIAの役割をピンカートンに依頼したのだ。
スパイ活動の重要性を言い出したのはアランのようだが、リンカーンは政治的なプロパガンダや理想だけでは戦局を動かすことができないこと、表向きの戦争のと同じように陰の戦いが必要であることを充分理解していたのだろう、ピンカートン探偵社は、スパイを南部に広く、数多く解き放ったのだ。
ピンカートン社のスパイ活動がなかったら、北軍の勝利は3年は遅れただろうとも、不可能だったとも言われている。戦争が長引き、より多くの血が流れたことは間違いない。戦局が終わりに近づいたとき、北軍の職業軍人のチョットした手違いから、ピンカートンが送り込んだスパイの名前が南軍に流れてしまい、ピンカートンのスパイは凄惨な拷問の末惨殺されたのだった。
その事件で、ピンカートンは政治にかかわることの恐ろしさを実感し、リンカーン大統領から様々な要職の要請があったにもかかわらず、以後、政治から一切身を引いたのだった。
その後、リンカーン大統領は、ワシントンのフォード劇場でジョン・ブースによって暗殺された。歴史に"もし"はないにしても、ピンカートンがリンカーンを警護していたら、いかなる人間も銃を持って大統領に近づくことは不可能だったろうし、射程距離200メートル以内にさえ近寄れなかっただろう。
リンカーンの暗殺に関して膨大な調査が行われ、小さな図書館なら一館埋まるほどの論文、本が書かれている。リンカーンのボディーガードをしていた、ワシントン警察署の刑事ジョン・パーカー(John
Parker)の余りにお粗末な警護から(自分も演劇を見るためによく見える席に移ったり、休憩時間には御者たちと劇場隣のバーで一杯引っ掛け、劇場に帰らずそのままトンヅラを決め込んだりしている)、暗殺は共同謀議であり、犯人のブースはケネディ暗殺のオズワルドのような操り人形か傀儡で黒幕は別にいた……というような本が出るたびに、ベストセラーの上位を占めている。
1884年にアランが死んだ後、二人の息子ロバートとウィリアムが後を継ぎピンカートン探偵社を発展させた。ピンカートン社のアウトローに関するファイルは数年前にワシントンのスミソニアン博物館に寄贈され、個々のピンカートンの探偵、刑事たちの手紙、電報などの報告書、記録、捜査状況を閲覧できるようになった。
ピンカートンで遠回りをしてしまったが、二つの学会も全米アウトローとローマン(シェリフなど法を守らせる側)歴史学会(National
Association for Outlaw and Lawman History)と西部アウトロー及びローマン歴史学会(Western
Outlaw-Lawman History Association)共にローマン、つまりアウトローを追いかけ捕まえる側にもアウトローと同じ比重をかけている。
両者の間に一線を引くことが不可能な時代ではあった。アウトローがローマンに変身し、シェリフがアウトローに身を落とすのが茶飯事であった時代のことだ。泥棒と巡査、トムとジェリーの関係なので、片方ばかりを語るわけにはいかないというわけだ。オマケに残っている記録の大半は、追いかける側、ローマンの記録で、アウトローたちはごく少数の手紙を除けば、犯行や逃走を具体的に書き残していない。
ユニオン・パシフィック鉄道会社が、大枚をはたいてピンカートンにワイルドバンチ追跡、逮捕を依頼したのは、ウィルコック列車強盗事件の2週間後だった。捜査費にに糸目をつけず、最高の捜査官を要請したのだった。ピンカートン探偵社が送り込んだのは、カウボーイ刑事捜査官として西部に名を知られていた“シリンゴ”(Charles
Siringo)だった。

チャーリー・シリンゴ。
この痩せた男がピンカートン探偵社の最高の切り札だった。
シリンゴは晩年に"メモワー"(回顧録)を書いている。
ついでだがアラン・ピンカートンも数多くの本を書いている。
主に自分の探偵社を広く知らしめるため、いうなれば
かなり宣伝臭のする、私が、わが社こそは、と鼻に着く書き方だ。
研究者によると、ゴーストライターを使って書かれた可能性が
大きく、今流の会社が自社の宣伝目的で出す小誌、
わが社の"歴史と沿革"に似ていると言ってよいだろうか。
それにしても数がやたら多い。
シリンゴはテキサス生まれのカウボーイで熟達したライフル、拳銃の使い手であるだけでなく、西部一帯の地理、自然条件も熟知しており、馬に乗ったまま眠るとか、一週間は眠らず、呑まず食わずで追跡するとか言われ、アウトローに恐れられた存在だった。逃走者の足跡を追跡するのが巧みで、加えて地元民から情報を聞き出すのもうまかった。
シリンゴはビリー・ザ・キッドを追い詰め殺したシェリフ、パット・ギャレットの下でシェリフとしての修行を積んだ…と言われている。というのはピンカートンに就職したときの推薦状の人物照会にパット・ギャレットの名を挙げているからだ。だが、一説によると、ビリー・ザ・キッドとも親交があり、一緒にシゴトをこなしたこともあるというから、一時期アウトローサイドにいたこともあり、追われる身から動向を読める捜査官だった。
…-つづく
第76回:ピンカートンの切り札〜チャールス・シリンゴ

