第四十一回
風姿花伝 その六
花修云(かしゅうにいわく) その一の三
なお、さらに心得なければならないこととして、良い悪いは関係なく、何としてもやってはならない能がある。どんな物まねをしてもよいけれども、たとえば、年老いた尼、老女、老僧などの姿をして怒り狂ったりしてはならない。また怒った仕草で幽玄を演じようとすることもまたしてはならない。これはまったくの偽物の能であり、そういうことをするのは、単なる狂躁でしかない。それがどうしてかという事に関しては、二の、物狂いのところですでに書いた。
また、すべてのことにおいて、相応に、調和がとれていなければ、出来たことにはならない。もともとの本が良い能を、上手が演じて、しかもそれがよく出来てはじめて相応と言い得るのであって、良い能を上手が演じれば、それで上手く行くと誰もが思いがちであるけれども、不思議に、相応には至らない場合も多く、目利きであれば、それに気づき、また、それが必ずしも為手のせいではないことをが分かるけれども、大抵の人は、それを能が悪くて為手がそれほど上手ではないからだと思ってしまう。そもそも、上手が良い能を演じて、どうして上手く行かないことがあるのかと、いろいろ考えてみたりもするが、これは、もし時分の陰陽が演技と調和しないからか、あるいは、花ということが分かっていないからかとも考えるが、それに関しては依然、よく分からないところがある。
|