第四十二回
風姿花伝 その六
花修云(かしゅうにいわく) その二の一
もう一つ、能の曲を書くにあたって、作者が心得ておかなければならないことがある。それは、演目の本木である中心的な部分がただただ静かで、音曲ばかりで構成したり、また舞や動きのみで構成したりするようなものは、それなりに一貫していて書きやすいものだが、しかし能というものは、動作が音曲に応じて為されるようなところがあるべきで、これは大変に大事なことである。人に本当に面白いと感じてもらえる能というのはそういうものである。言葉を聞かせるべきところは、耳慣れた面白い言葉を用いて、調子も良く、言葉が美しい響きを伴って続いて行くようにし、そして、それが風情のある詰めにつながって行くよう心がけて書くべきである。こうしたいろいろなことが作用しあってこそ、誰もが感動する演目になりうる。
ところで、細かなことだが知っておくべきことがある。それは、動作というものをもとにして音曲を演ずる為手は、まだ初心者というべきで、そうではなくて、音曲から自ずと所作が生じるような為手こそが、熟練者だということである。音曲は聞くものであり、風体は見るものであるけれども、どのような音曲であっても、言いたいこと、表したいことに、見ているうちに自ずとつながっていくような流れが出来ていてはじめて、どんな風情も表しうるのである。もちろん、意味を表すのは言葉であるけれども、しかし、音曲は体で表すものであり、それが目に映って醸し出される風情が作用して感動を生むのであるから、音曲から動きが生じるのが、まっとうで順な能で、動きで音曲を表そうとするのは逆である。すべての道は、また全てのことは、順が合って逆があるのであって、逆があって順があるのではない。何度も言うようだが、音曲の言葉につれて動くことで、それを風体による風情で彩るべきである。こうした音曲と動作との働きを一体のものにしようと思えば、そのように心がけて稽古をする以外にない。
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