第十三回
風姿花伝 その二
物學(ものまね)のいろいろ
物狂(ものぐるい)
これは能の面白さが最もよく発揮される、この道一番の芸能である。演ずることが出来る物狂(ものぐるい)の種類が多ければ多いほど、この道の達人と呼ばれるようになるにつれて、そのことが芸能全般の広がりや深みなど、あらゆることの向上につながるようになっていく。したがって物狂は、くりかえしくりかえし工夫をしながら、公案を重ねて嗜(たしな)むようにしなければならない。
何かの霊が乗り移った假令(けりょう)や憑物(つきもの)の数々、神や仏、生霊(いきりょう)や死霊(しりょう)のたたりなどは、その憑物(つきもの)のありよう、なにがどうして取りついているかなどを学べば、それを手がかりにして容易に演ずることが出来るけれども、親と生き別れた者、失った子供を探し求める者、夫に捨てられた女や、妻に先立たれた者などの、それぞれの想いがなせる狂乱の物學(ものまね)は、大変に大事であって、よほど上手な為手であっても、それぞれの物狂(ものぐるい)の心をよく分らずに、どれも同じように、ただ単に狂って見せたりなどすれ
ば、やればやるほど、観る人の感心からは遠ざかってしまう。
想いがその人を狂わせているわけだから、肝心なのはその想いであって、何が大事といって、何かを想うその気色(けしき)を何より大事にし、それが狂(くるい)にいたるところを花にあて、心を入れて狂えば、観る人々の感所も、見所も、自ずと定まってくる。そのような演り方で、もし人を泣かす場所を作りだすことが出来れば、それこそ無上の上手だということを知る必要がある。このこと、心の底から、深く思い分らなければならない。
大体において、物狂いを演じる際の出立(いでたち)は、対象に似せるようにすることはもちろんだけれども、しかし、場合によっては、物狂いを演じているのだということを上手く使い、ひときわ花やかに舞台に出(い)で立ち、時の花を挿頭(かざ)したりすると良い。
さらに言っておかなければならないが、物狂(ものぐるい)の場合は、 物まねをするにあたって心得ておかなければならないことがある。物狂(ものぐるい)は、憑物の本意、すわなち狂うわけがあって狂っているのだが、たとえば女の物狂いなどをまねる場合に、戦闘の化身とも言うべき修羅や闘諍や鬼神などが憑(つ)いたように為すことは、何よりも悪いことである。
憑物の本意を演じようとして、女の姿で怒りを表したりなどすれば見所(みどころ)が見当違いのものになってしまうし、だからといって女であることを本意とすれば、憑物を演っていることにならない。また男の物狂(ものぐるい)で、女が憑いているような場合も同じであって、すなわち、あまり形にとらわれないのが秘事であるといって良い。
もしそうするように能の本に書いてあるとすれば、それはその本を書いた人の考えが浅いからであり、この道に長じた書き手であれば、そのように似合わないことを書くことはないと思われる。また、そのようなことを自分で考え、公案を尽くすこともまた秘事であり、上手くなる秘訣であるといって良い。
また面をつけない直面(ひためん)での物狂いは、能を極めた為手でなければ、十分に演じきれるわけがない。いうまでもなく、顔の表情、気色そのものがいかにもそれらしくなっていなければ物狂いに見えるわけもなく、上手くいかないからといってむやみに表情を変えたりなどすれば、それはそれで見られたものではない。
これは申楽の奥儀ともいうべきことであって、物まねが必要な、大事な申楽に初心者をあてたりするのは考えものである。能の一大事としての直面(ひためん)、もう一つ
の大事としての物狂い。この二つの大事な色を一つの心で織り成して、それでなおかつ面白いところに花をあてることが、どれほどの大事か。 それを思えば、よくよく稽古をするいがいにない。
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