第三十三回
風姿花伝 その五
奥儀讚歎云(おうぎにさんたんしていわく) その二
またこの猿楽の道というのは、大和猿楽を行う和州と、近江猿楽を行う江州とでは、その表現の様式である風体(ふうてい)が異っている。江州では、幽玄の状態というものを特に大切な境地として重要視し、それをものまねより優先し、姿の美しさを基本とするのに対し、和州では、まずものまねを大事とし、物まねの数をきわめつくすことによって幽玄に到達することを基本としている。ただ、本当の上手であれば、どちらの風体でなければ幽玄を表現することができないというわけでは決してない。一方の風体ばかりを追求するというのは、実に、至らぬ人のやることである。
したがって、和州の風体と、ものまねや、その意味などを基本とし、あるいは、見どころのある裝(よそおい)や、怒りを表現する振舞など、いろんなことを会得した人と人も認め、芸に励み嗜むことにおいても、それに専念した人物である今は亡き父が、その最盛期において演じた静かの舞い、嵯峨の大念仏の際の女もの狂いのものまねなどは、まことに誰にもで
きないような風体であって、父は天下の褒美、名声を得たけれども、それは、世の万人がそれを当然のこととして認めるほどの、明らかな素晴らしさであった。
また田楽での風体は、これはまた、別のものであって、見る目のある人はみな、この田楽に関しては、猿楽と同じように比べて批判してもしょうがないと言ったけれども、しかし父は、この田楽の聖者とも言うべき本座の一忠という人を尊敬していて、極めつくした数多い物まねのなかでも、特に鬼神の物まねや、その怒った時のようすなどには、まったく完璧で足りないところなどなかったと言っておられた。
つまり今は亡き父は、常々そうして一忠のことを、正直に、田楽の風体に関しては彼が自分の師であると言っておられたのだった。
第三十四回
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