第五十一回
風姿花伝 その七
別紙口伝 その一の二
それに、人の好みというものもまた色々であって、音曲・振舞い、物まね、それぞれが違い、時や場所によってもさまざまであるので、そのつどそれに応じてできないようでは、花を知る演者とはとても言えない。
つまり、いろんなことを極め尽くした為手というのは、初春の梅から秋の菊が咲いて散るまで、一年中、花を咲かせる種を持っているようなもので、どんな花であっても、人が望みや時に応じてそれを取り出して咲かせることができる。逆にその種の数が十二分になければ、花を失うこともありうる。
たとえば、春の花の頃が過ぎて、夏草の花を観賞したいと思う時に、春の花を表すことが得意な為手が、演ずるに足る夏草の花がなくて、過ぎてしまった春の花を、またもや持って舞台に出るとすれば、その時の花を咲かせられるはずがない。この例でもわかるように、観る人の目に、新鮮で珍しく映ってこそ花であって、出し物の数を極め、工夫に工夫を重ねて、花が失せることがないようにしなければならないというのはこのことである。
つまり花と言っても、特別なことがあるわけではなく、とにかく学ぶべき物の数を尽くして、工夫に工夫を重ねてこれを会得して、新鮮さや珍しさやすばらしさの感覚を心得ることが花を知るということであって、「花は心、種はわざ」というのは、そういうことである。
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