第三十四回
風姿花伝 その五
奥儀讚歎云(おうぎにさんたんしていわく) その三
また人間というのは、多くの場合、ある者は、人からなにかと指摘されたりすることが嫌なために、またある者は、ほかのことが上手くできないがために、(得意な)偏った傾向の芸ばかりに執着して、いろんな芸を習得しようとせず、異る芸風をことさらに嫌ったりするものだが、これは嫌うというのではなく、単に、ほかのことができないからそのことにこだわっているにすぎない。
そうしていろんなことができなくて、一つのことばかりやるので、それに関しては、それなりの名声を、ひとまず得たりするけれども、それは所詮、天下の人々の目にかなうようなものではなく、長く咲かせられるような花ではない。
すべてに通じ、人々をあまねく感動されることができるような人は、何を演じても面白く、たとえ芸風や、型が、それぞれちがっていたとしても、そこには共通する面白さがある。この面白いということが、すなわち花、ということであって、これに関しては、大和の申楽であろうと、近江の申楽であろうと、さらには田楽の能であろうと、まったく同じである。したがって、このいずれにも共通する花を持った者でなければ、天下の名声を得られるような存在になれるわけがない。
ただ、一つ言えることは、たとえあらゆる演目を極めなくても、たとえば、十に七、八くらいを極めたとして、そのなかの絶妙の演目を、さらに学び極めて、それを自分自身や門下の特有の型にようなものにまで高めるならば、それによって天下の名声を得ることはありうる。
もちろんそうは言っても、十のうちの十を極めた者でなければ、都で演じるのと地方で演じることの違い、あるいは、観客の貴賎によって、演技を非難されたりすることは、十分に起こりうることである。
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