第三十五回
風姿花伝 その五
奥儀讚歎云(おうぎにさんたんしていわく) その四
だいたいにおいて、能で名声を得るといっても、いろんな場合があって、上手な人の能が、あまり目が利かない人を感動させることは難しいし、下手な人の能が、目利きの人の眼に叶うはずもない。もちろん、下手で目利きの眼に叶わないのは当然であるし、上手でありながら、目が利かない人の眼に上手と映らないのは、見る人の目がいたらないからで仕方のないことだけれども、しかし本当の上手であって、それなりに為手が工夫をすれば、目が利かない人の目にも、面白く見えるものであるから、そのような能をすべきである。
そのように工夫と技の鍛練を極めた為手こそ、花を極めた達人と呼ばれるべきである。その境地に到達した者であれば、どんなに歳をとっていたとしても、若い演者の花に劣るわけがない。そのような達人こそが、天下の都で名人と呼ばれ、あるいは、遠くの田舎の国々の人々からも、誰からも、面白いと思われるのであって、そうなるための工夫を極めた為手であれば、大和風であれ、近江風であれ、さらには田楽風のやりかたをしたとしても、観る人の好みや、要望に合わせて、何を演じても上手に演じることができる。このようなことの本当の意味を明らかにし、修練に活かしてもらいたいために、こうして風姿花伝を文字に表しているわけである。
ただ、そう言ったところで、自分の演りかたの基本形が疎かであっては、まったくもって、能に命を宿らせることなどできるわけがない。そのような為手は、弱い為手であって、誰でも自分の演りかたの基本形を極めてこそ、どんな芸風にも通じることを知り得るのだと言ってよい。どんな芸風でも演ろうと思って、自分の基本形を追求し極めないような者は、自分自身の演リ方を知らないばかりか、ほかの演り方に関しても、確かなものとしては、当然ながら知り及ぶことはできない。つまり、弱い能の為手が、長く人に花を見せることができるはずはない。そして花を長いあいだ保てないようであれば、それはつまり、どんな演り方も、ちゃんとは知らないに等しい。この風姿花伝の花の段に、「できるだけ多くの演目を習得し、工夫を極めてはじめて、いつまでも花を失わない為手となることができる」と書いたのは、そういうことにほかならない。
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