第二十二回
風姿花伝 その三
問答集 その四
得手々々について
問 能に、得手々々といって、通常よりかなり劣った為手であっても、なにか、これだけはというような得意なことにおいて、上手にも勝まさることがあったりします。ただ、もしその良さを上手な人が取り入れて演じれば良いと思うのですが、そうしないのは、それが容易にはできないからでしょうか。それとも、そのようなすべきではないと思ってしないからなのでしょうか。
答 一切のことに得手々々というものはあるもので、だれでも、生まれながらにして身についている、生得とも言うべき得意ななにかを備えているもので、そのようなことに関しては、上手といえどもかなわないことがある。
もちろんそれはそこそこの上手の話であって、もし本当に、能の極意を得てそれに工夫を重ねたような上手であれば、どのようあんなことでもできないはずはない。ただそうはいっても、能と工夫を極めたような為手は、萬人に一人もいないので、そのようなことが起きるのである。どうしてそういう人がいないかといえば、能をそれなりに会得したとしても、そのうえにさらなる工夫を積み重ねるのではなく、逆に慢心が生じてしまうからにほかならない。
そもそも、上手にも悪い所はあり、下手にも良い所はあるものなのだが、そういうところ所を見つける人もいなければ、本人も知らない。上手は、名声に頼り、達者であることで隠れてしまっている悪い所を知らず、下手は、もともと工夫ということをしないので、悪い所もわからなければ、良い所がたまたまあったとしてもそれに気付かない。だから、上手な人も下手な人も、互いに人に尋ねるべきである。だから、能と工夫を極めようとするならば、このことを知るべきである。
どんなに下手な為手であっても、もし良い所があると見て取ったならば、上手な為手といえども、それを学ぶべきである。これが上手くなるなによりの方法である。もし良い所を見つけても、自分より下手なものの真似などしてなるものか、などという狭い了見から生じるこだわり、そのような自分というものに捕らわれた我執の心、すなわち諍識にとらわれて自分の悪い所を知ろうとしないのは、能をや工夫を極めようとする心の持ちようではない。
また下手な為手が、もしも上手な人の悪い所を見つけたならば、上手な人でさえ悪い所があるのだから、自分のような初心者には、なおさら悪い所がたくさんあるだろうと思い、そのことに恐れ入って、人に見てもらって悪い所を指摘してもらい、それをなおすべく工夫をすれば、それこそ本当の稽古となって、能も早く上達するであろう。そうではなく、ひとの悪い所を見ても、自分はあれほどには悪くないだろうなどと慢心するようでは、自分の良い所さえ、本当には知らない為手であるといって良い。良い所の何が良いかを知らない人は、悪い所の何が悪いかを知らない人であり、悪い所を良いと勘違いしかねない。そのようなことでは、いくら歳を重ねても、能が上達するはずもない。それこそが下手の心にほかならない。
つまり、上手であっても慢心すれば能は下がるということであり、まちがっても、満足にできてもいないのにこれでやり遂げたなどと慢心しておごり高ぶるようなことのないよう、良く良く考えて工夫を重ねなければならない。下手な人の良い所を取って、自らの上手な演技のひとつに加えてはじめて、無上の極地に達することができるというのが道理というものであって、ひとの悪い所を見ることもまた、自分自身を高める手本となりうる。ましてや良い所ならば当然である。「稽古は厳しく、諍識にはとらわれず」というのは、そういう意味にほかならない。
|