第五十三回
風姿花伝 その七
別紙口伝 その二
さらに細かなことを言い伝えておくと、音曲・舞・働き・風情、これらはみな、同じ心根をもって行うべきである。たとえば、いつもの風情・音曲ということであれば、それはこういうことだろうと習慣的に誰もが思うようなことを、それだけに頼るのではなく、見た目に同じような動作ではあるけれども、もともと日常的にそうであるよりは、軽々と映るように心のどこかで心がけ、慣れ親しんだ音曲であっても、さらにそのいわれや、そもそもそのような動作がどこから来たのかというようなことに想いをはせて、曲を彩り、声を出し、演じている最中にも、そのつど、今ほどこのように心を込めたことはないと思うほどに大事にして演技を行えば、それを見聞きする人は、いつもよりずっと面白いと判断し、あるいはそう指摘してくれることもあるが、それは観る人聴く人がそう感じるということで、何も珍しいことではない。
したがってたとえ同じ音曲・風情を行っても、上手な人が演ずれば格別の面白さが出るし、下手な人というのは、習い覚えたお手本のとおりにやって、それ以上のものにはならないので、特に新たに心を引くようなことはない。上手な人というのは、同じ節回しをするにしても、曲というのは節の上に咲く花だということを心得ている。また同じ上手がつくりだす同じ花の中にも、このうえない程に考え工夫を凝らしたあものは、さらなる花に行き着き、無上の花を咲かせることができる。
なお音曲についてさらにいえば、節というのは決まった形木を示すものであり、曲にこそ上手が表れる。舞いも同じで、舞いのひとつひとつの動作である手は形木であって、それによって醸し出す風情である品に、上手かどうかが表れる。
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