第五十四回
風姿花伝 その七
別紙口伝 その三
物まねに、似せないという境地がある。物まねを極めて、その物に本当になり切ると、その物に似せようという気持ちがなくなる。そのようにして、何をやっても面白く演じることができるほどになれば、そのような能に花がないわけがない。
たとえば、老人の物まねであれば、それを会得した上手の心のなかにあるのは、単に普通の素人の老人が、お祝い事の際などに華やかな衣装を着て踊る風流や、法要の際の余興で歌い踊る延年を、着飾って歌い踊っているということだけで、その場合は、その人がもともと年寄りなのだから、年寄りに見せようなどという気持ちなどあるわけがない。ただひたすらに、そういう時の体やその動きを身に付けるだけである。
また、年寄りに見えても花のある老人というのを演じるには、なによりもまず、良くも悪くも老いた風情を出そうなどとしないことである。舞や働きというのは、演ずる対象が何であっても、楽の拍子に合わせて足を踏み、手を出したり引いたりして、振りや風情を、拍子に合うようにするべきものであって、年寄りの場合は、どうしてもその合わせかたが、歌や太鼓の鼓の拍子の頭にぴったり合わずに、ほんの少し遅く足を踏んだり、手を動かしたりして、全体の振りや風情が、ほんの少し遅れたりする。それが、年寄りというものの基本の形木であって、このようなことだけを心得て、それ以外のことは、ほかのことと同じように、どんなことであっても花やかに演るほうがよい。
一般に年寄りというものは、何をするにしても、若く見せたいと思うものだけれども、しかし実際には力なく弱々しかったり、五体の動きも重く、耳の聞えも悪く反応も遅かったりして、心ではそうしようと思っても、振舞いがそうはならないものであって、そういった道理を知ることこそが、本当の物まねというものである。したがって、そういった様子を演ずるには、年寄りがそうありたいと思っているように、若い風情を心がけるべきで、そうしてこそ、年寄りが若いということを羨ましく思う心持ちを学ぶことにつながる。
年寄りというものは、どんなに若く振舞おうと思っても、拍子に遅れたりして、それに合わせる力はなく、それが叶わないというのがあたりまえであって、だからこそ、年寄りの若振舞いというのができれば、それはまことに素晴らしく、まさしく、老木に花が咲いたような風情をみせることができるのである。
|