第二十四回
風姿花伝 その三
問答集 その六
文字に書かれていることを演ずるには
問 謡曲として文字で書き記されている風情を、身体で表現するにはどうすれば良いでしょうか。
答 これには繊細な稽古を積むことが必要である。能でいう、もろもろの働きというのは、まさにこのことである。また身のこなしや、ちょっとした動作がかもしだす風情である、帯佩たいはい、あるいは見使いというのも、このことをいう。例えば「言う」という文字が書かれてあったとすれば、心と体をその文字に任せなければならない。「見る」という文字には、物事を見るという意味と動作が、「指す」あるいは「引く」という文字にも、手を指し引くという意味と動作が、また「聞く」とか「音する」という文字には、耳をよせるという意味や動作がともなう。
したがって、そのように文字に任せて体をつかえば、自ずとそれが能の働きとなる。大切なのは、まず第一に身体を使うこと、第二に手を使うこと、第三に足を使うことである。どんなに手足が利いても、身体が利かなければ品やかかりが連動しない。身つかいが達者であれば、手足は自ずと動くものである。したがって身体を第一とする。次に、舞や働きにおいて花を見せられるかどうかは、手しだいであって、したがってそれを第二とする。足は舞や働きをよく知る者であっても、品やかかりの花の方に気を取られるもので、足が大きな働きをすることは比較的少なく、したがってこれを第三とした。
また当然のことながら、節やかかりによって、身体の振舞ふるまいのありようをよくよく考えるべきであって、これは筆で書かれた文字を見るだけではわかりにくく、稽古の場の、そのときどきで、自分の目で見て習わなければならない。こうして文字に合わせて的確な表現が行えるよう稽古をしてそれを極めれば、音曲と働きが、一つの心のうちにとらえられるであろう。
つまり音曲と働きが一心であるということは、能の会得の極みであって、堪能たんのうというのは、まさにこの境地にほかならない。これは秘事というべきことであって、もともと、それぞれの心を持つ音曲を働きを、一心のものと感じる、あるいは感じさせるほどの達者を極めれば、これはもう無上第一の上手であり、それこそ、本当に確かな能と言って良い。
確かで強い能とか、あやふやで弱い能という言葉は、しばしば人を紛らわす言葉で、品がない能を強いといったり、弱い能を幽玄と言ったりするのは変である。いくら見ても、どこから見ても、弱々しくない為手がいるけれども、それが強いということであり、どこから見ても、見れば見るほどに花のある為手の能こそが幽玄である。
したがって、これらの文字が言い表す道理を極めるところにこそ、曲・働き・一心があり、強いということと幽玄ということの境を知るということが、それぞれを、どちらも極めた為手となることに自ずと通じると言って良い。
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