第三十六回
風姿花伝 その五
奥儀讚歎云(おうぎにさんたんしていわく) その五
また能の秘儀と言うべきこととして、そもそも芸能というものは、人々の心を和らげ、それを観る人々のあいだに身分の上下をなくすものであって、寿福増長、すなわち、喜びや幸福感を増やし、長生きの基(もと)となるべきものである。ただ、全ての芸能の道というものは、どれも極め尽くせばみな、おなじような効能をもたらすものである。したがって、この芸を極め、上達を極めて、それで喜ばしい名を残すことは、天下の望むことでもあって、そうすることこそが、寿福増長である。
ただこのとき、一つ心得ておかなければいけないことがある。それは、芸の根本をわきまえ、知恵もある者が見れば、当然のことながら、上手を極めていることやその質の高さなどは、そのままそのように受けとめられるであろうけれども、しかし、愚かな者や、都を遠く離れた田舎の、そのようなものを目にしたこともないような者の目には、演技の上での上手さも質も伝えることは難しい。問題は、それをどうするかということである。
この能という芸能は、それを観る人すべてに愛されてこそのものであり、それによって一座を起こす喜びも得られるのであるから、あまり受け入れられてもらえないようなことばかりをやっていても、よいことはなく、高い評価を受けることもない。
したがって、常に能というものは何かという初心を忘れることなく、時に応じて、また場所に応じて、愚かな者の目にも、なるほどと思われるように能を演じてこその寿福(じゅふく)である。よくよく世間の習わしやありようを見極め、高貴な場所や山寺や田舎や遠国や、さまざまな寺社のお祭りや行事にいたるまで、どこで行っても不評を買うようなことがなくて初めて、寿福の能の達人であると言って良い。したがって、どんなに上手であっても、誰からも喜ばれ愛されるようでなければ、寿福増長の仕手というわけにはいかない。そうであるからこそ、亡くなった父は、どんな田舎や辺鄙な山里で演じても、人々の感心を得るこ。
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