第二十五回
風姿花伝 その三
問答集 その七
萎れているということの意味について
問 演技を評するさいに、しばしば、萎れたりと表現されることがありますが、これはどういうことをいうのでしょうか。
答 これは文字で、これこれこういうことだと書き記すのはなかなか難しく、言葉で表現しても、うまくは伝わらないかもしれない。けれども、萎れたりというしかない風體が、実際にあるのも事実で、これは言ってみれば、花と関係する風情のありようで、良く良く考えてみるに、このことは、稽古を積んだりしても、意図的にこのように振る舞おうと思ってもできることではなく、花を極めてようやく、それが意味するところがわかるようになるとしか言いようがない。
つまり、たとえあらゆる物まねを極めていなかったとしても、何らかのかたちで花を極めたと言えるような人であれば、萎れたりということの意味が分ることもあるのではないかと思われる。ようするに、萎れたりというのは、花よりもさらに上の表現であって、したがって、花を見せることができない者に、萎れるということが表現できるはずもない。たとえそのようにやろうとしたところで、ただ単に、湿りたる、という風體になるのがおちである。花が萎れてこそ面白いのであって、花が咲かない草木が萎れたところで、何も面白くはない。だから、まずは花を極めることが大事であって、その上にあるようなことであるわけだから、萎れたる風情というのは、よくよくの大事であって、実に、なんとも言葉ではたとえようもない。ただ、このような古歌がある。
薄霧の籬(まがき)の花の朝じめリ秋は夕べと誰(たれ)か言いけん
色見えで移ろうものかは世の中の人の心の花にぞありける
ここで歌われているような風情に通じるものがあるとはいえるかもしれない。それぞれが、自分の心に問いかけて、良く考えてもらいたい。
|