第二十六回
風姿花伝 その三
問答集 その八
花を知るということについて
問 能に、花を知るという言葉がありますが、いろいろ考えてみるとこれは、何よりも大切なことであるように思われます。非常に肝心要のことでありながら、同時に、よくわからないことでもあります。これはどうすればわかるようになるでしょうか。
答 これは、この道の極める際の奥儀ともいうべきことで、最も大事なこと、秘事というべきようなことは、ただただ、この一時にあると言っても良い。まずおおよそのことは、この風姿花伝の一と二でも述べたけれども、時分の花、聲の花、幽玄の花など。これらはみな人の目にも見えるけれども、どれもみな為手の姿形をとおして表われる花であり、したがって、まるで花が咲き始めるような時分もあれば、やがて散る時分もある。どちらにせよ、花のある時は、そう長くはないので、そのようすが広く世間に知れ渡って名声を得るというようなことも少ない。ただ、誠の花として、どうして咲くか、どうして散るかという道理まで極めた者であれば、思いのままに花を咲かせ、散らすこともできる。したがって、花を長いあいだ保つこともできる。
それでは、この道理(ことわり)をどうすれば知ることができるかということだが、もしかしたら、そのうちにまた別の口伝で述べることがあるかもしれないが、ただ、あまり煩わしく考えすぎるのも良くなく、基本的には、七歳から始めて、年々さまざまな稽古を重ねて、物まねの数々なども、よくよく心底理解して、それぞれの態(わざ)をならい覚え、能を尽くし、工夫を極めたのちに、はじめて、ここでいう失せぬ花ということを考え知ると良い。まずは物まねのいろいろを極めるという気持ちが大切であって、それがすなわち花の種となると言って良い。だから花を知りたければ、まず種を知らなければならない。花は心。種は態(わざ)。また古人の詩にこのようなものがある。
心地含諸種 普雨悉皆萌
頓悟花情己 菩提果自成
(大地はそのなかにもろもろの花の種を宿しているのものであって、それらは雨が降ればたちまち芽を出し花を咲かせる。そうして花はたちまちにしてその想いを自ずと知るが、それは菩提の実が自ずと成るようなものである。)
さて、家を守り、藝を重んずる気持ちから、亡き父から言われたまま心の底にしまっておいたことを、こうして書き記したが、それもこれも、世間の非難を忘れて道が廃れてしまうことを心配してのことであって、他人の才覚についてとやかく言うためではない。ただただ、子孫のために、庭訓を残しておきたいからにほかならない。
不死歌伝條々以上
于時應永七年庚辰卯月十三日 従五位下左衛門大夫秦元元清書
|