第三十回
風姿花伝 その四
神儀ということについて
申楽の始り その四
一、平安京の村上天皇の時代、天皇が、その昔に聖徳太子こと上宮太子がお書きになった申楽延年(さるがくえんねん)に記されていることをご覧になったところ、まず、神代の時代のことからお釈迦さまの佛在所の始まりの下り、中国の古くからあった国々である、月氏(げっし)、震旦(しんたん)、日域(じちいき)などに伝わる狂言綺語(きょうげんきご)、すなわち巧みな言葉や技によるつくりごとの芸を、讃仏轉法輪(さんぶつてんぽうりん)、すなわち仏さまの教えがどのようにしてもたらされたかを知り、またそれを伝え広めることを大切にしつつ、魔縁を退け、福祐(ふくいう)、すなわち天の恵みであるところの幸福を招くものとして申楽の舞いを奉納すれば、国は平穏になり、民も安らかになり、寿命も伸びると、太子自らの筆によって書き記されているところから、村上天皇が、申楽によって祈祷を行い天下を鎮めようとされた。そのころ、かの河勝の遠い子孫に当たり、その芸を伝承していたのが秦氏安(はたのうじやす)である。彼が六十六番の申楽を紫宸殿でとりおこなった。そのとき、紀権守(きのごのかみ)という、氏安の妹聟にあたる、非常に才智ある人がいて、氏安は、この人を伴って申楽を行った。
その後、六十六番の申楽を一日で執り行なうのは難しいということになり、そのなかから、稲經翁(いなつみおきな)翁面、代經(よなつみ)翁三番申楽、父助(ちちのぜう)、この三つを選んだが、それが現在の式三番のもとである。これの意味するところはつまり、法、報、應、の三身の如来の象徴として、この三つの演目を奉納するのである。式三番の口傳は、別紙にあるとおりである。なお、光太郎、金春は秦氏安から二十九代目の遠い子孫にあたり、秦氏安の芸を今に伝える彼等の座が、大和國園満井の座である。また同じく、秦氏安から伝えられたものに、聖徳太子がお造りになった鬼面、春日の御神影、仏舎利があり、この家には、この三つが、伝え遺されている。
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