第6回:ライプツィヒという町 その5
現在、ライプツィヒの町は人口60万人を越す大都会に成長した。バッハがこの町に棲み始めた頃の人口は3万人程度だから、長い年月を経て順調に発展してきたと言っていいだろうか。今では、ザクセン州の首都ドレスデンを抜いて、州第一の都市になっている。
ライプツィヒの人口が最高潮に達したのは1931年のことで、72万人にまで増えている。これは、ナポレオン戦争(1813年のライプツィヒの戦い)以降、商業都市から工業都市へと発展して行ったからだろう。ナチス時代、そして40年に及ぶ共産主義国家の経済統制の期間も一時期停滞しはしたが、ライプツィヒは生き延びてきた。
そういえば、大戦後、1949年に東ドイツ共産主義国家(GDR;ドイツ民主共和国)の初代の国家元首になったヴァルター・ウルブチヒトもライプツィヒ出身ではなかったか。共産主義国家の時代、ライプツィヒは東ベルリンに次ぐ第二都市だった。理想に走りがちな共産主義国家にあり、現実を踏まえた経済感覚をもって工業、商業をつかさどってきたライプツィヒを新生東ドイツは必要としていたのではないかと思う。見本市の代名詞のように使われている“メッセ”でフランクフルトに対抗できる、肩を並べることができるのは、ライプツィヒしかないではではないか…。
東西統合以来、さらに発展し続けたライプツィヒは、現在、BMW、ポルシェの新工場、アマゾン、DHLのハブがあり、大手の銀行、企業が税金の高い、EC本部のあるベルギーのブリュッセルから続々と移転してきている。ブリュッセルでワンルームマンション(アパートだが)を借りる値段で、ライプツィヒなら広大なワンフロアを借り切ることができる…とまで言われた。
ヨーロッパの古い町は城壁で囲まれていることが多い。ライプツィヒも例外ではなく、現在“リンク”と呼ばれている環状道路が走っているところに、グルリと町を囲む城壁があった。従って、城壁の内側は狭い。南北に横切っても1キロ程度だろうか。狭く込み入った旧市街の外、リンクの外に、広大な緑地帯、公園が散在しており、その周囲に豪壮な邸宅が並んでいる。町の東側のそんな住宅地にメンデルスゾーンやシューマンの家がある。
商業都市として繁栄していた時の豪商のマンション(日本的ではない本当の大邸宅)だったのだろう。東ドイツ、共産国だった時代に、相当くたびれた老嬢のように、しかし、まだ昔の面影を残している建物、豪邸がたくさんあった。
東西ドイツが統合された時、西ドイツは経済的に遅れた東ドイツを抱え込むことになるので、統合ドイツの発展は10年は遅れるだろう…などと言われたものだ。私は西ドイツのお金が東にドッと流れ込み、東を買い取ってしまうことになるのではないか…と予想していた。
ベルリンの壁が崩れた時、私はヨットで水上生活をしていた。その時、ヨット仲間のドイツ人、オーストリア人、スカンジナヴィア人たちが、こぞって自分の国に帰った。激安の旧東ドイツの不動産を購入し、または東側に進出する企業に投資するためだった。それは唖然とするくらい、スワッとばかりに旧東ドイツにタカッたのだった。
中には私たちと同レベルの小さいヨットで、貧乏セーリングをしている若者もいた。私たちは不在中の彼らのヨットやペットの世話をした。その中に、オーストリアの若者アーヴィンがいた。私たちは彼の猫3匹と手入れの悪い、よくぞまだ浮いているな~というオンボロヨットの世話をした。
2、3ヵ月後、アーヴィンが帰ってきて、彼が旧東ドイツで買った豪邸の写真を見せてもらった。もうどこの町だったか、いくらだったか忘れてしまったが、そんなお金で、そんな豪邸を買えることにショックを受けた。それは、私がバックパッカー時代、ライプツィヒの公園を歩き、その周囲に建っていた由緒ありげな大邸宅と似ていた。
貧しかった東ドイツは、西から流れ込んできたお金にあっさりと飲み込まれてしまったのだろう。
マイケル・フィシャーの絵を外壁一面に描いた
旧東ドイツ時代のアパート群
今はすべて取り壊され
マリオットホテルの一面だけに残っている
定宿にしていたNord Strasseのシュラーフグート(SchlafGutというペンション)のアパートの5階から、リンクを挟んで共産圏時代に建てられた公団住宅が6、7棟並んでいるのを毎日眺めていた。統合後、その壁一面にこのような稚気あふれるグラフィティーが描かれていた。(AP.1020548)
現在、この公団住宅は取り壊され、有名なファッションブランドの店舗が並ぶ超近代的なショッピングモールに変身した。
後年、バッハ音楽祭にのめり込み、ライプツィヒの町を、数えてみると10回訪れ、そこで2週間ずつ過ごすことになったが、街の様相は毎回行くたびに激しく変わっていった。郊外に建っていた鄙びた豪邸は、高い鉄柵に囲まれ、インターホーンが門に付き、外壁はきれいに塗り直され、ドアも窓も新しく取り替えられていた。いかにも共産圏時代に建てられた四角四面のアパートは崩され、近代的なマンション?に取って変わられていた。
と言っても、私が知る範囲はきわめて狭い。旧東ドイツの町ライプツィヒのしかも旧市街、リンクの内側だけだ。その上、バッハ音楽祭の期間、気候のよい6月に限った経験だけだ。それにしてもよく歩き回った。リンクの内側だけでなく、市の南西ヨハナ公園(Johanna Park)を抜け、広大な森のようなクララ・ゼトキン(Clara Zetkin)公園が尽きるところまで、また、町の西の運河を越え、パルメンガーデン(Palmen Garten)へ, 北にある動物園と付属している公園などを歩き回った。時にはチンチン電車に目的がないまま終点まで乗り、その界隈を歩いた。
そして、当然のことだが、西側の資本がスワッとばかりに入ってきて、ハデハデしく変わっていったのは中央駅界隈、そしてリンクの内側とその周辺で、そこを外れると古壁そのままの住宅、アパート群が残っていて、狭い小路から、ハンチング帽を目深に被り、重そうな厚手のオーバーコートを着込んだ男たち、踵まである黒く長いスカートをはいた女たちが現れてきそうな、旧東ドイツのイメージそのままの風景が広がっているのだった。
東ヨーロッパ、共産圏の国々は、貧乏バックパッカーにとっては物価がベラボーに安いというだけでも旅行しやすい国々だった。が、そこで暮らす人々の内側まで立ち入り、知ることはほとんどできなかった。それでも、ドレスデンで2回、プラハで1回、ブダペストで2回、食事のご招待を受け、家庭の中を覗き見る機会があった。
日本で私の周りに、特別貧乏家族が集まっていたわけではないと思うが、私の家、横浜の間借り下宿、友達の家に比べ、共産国で私が訪れた住居は広く立派だった。でも、こんな印象は腰にドルのトラベラーズチェックを後生大事に巻き、持ち歩いているバックパッカーが針の穴から覗いた見聞に過ぎないのだろう。
鉄のカーテンの向こう側の東ヨーロッパの国々の人に共通して云えることだが、そこで会った人たち、私の場合、主に学生だったが、彼らは一様に西欧、西側のキラビヤかな繁栄に幻想的とも云える憧れを抱いていることだった。
私が、あなたの家は、アパートは、私の日本の家の2、3倍の広さがあり、すべて立派級ではないか、それ以上何を望むのだ…と混ぜ返すと、お前はこうして世界中を旅行しているではないか、自由に旅ができ、そのお金(ドルのことになる)を学生の身分で稼ぐことができるではないか、と反論されるのだった。彼らにとって、一貧乏旅行者である私がウラヤマシがられる存在だったのだ。
狂気のような共産主義が吹き荒れた時代、一体あれは何だったのだろうか。大戦後にスターリンが粛清した何百万人と言われる人たちは何のために死んでいったのだろうか。共産主義、ボルシェビキの危険性、地球上で危険な存在になると見抜いていたチャーチルは、戦後早い時期に退けられ、スターリンと温厚な関係を保とうとしたクレメント・アトリー(Clement Attlee)に変えられた。
そして、長い冷戦時代が続くことになる。
東西ドイツ分裂時代が残したほとんど唯一の遺産は、スパイ小説だけではなかったか。その頂点を極めたのがジョン・ル・カレ(John le Carré)の『寒い国から帰ってきたスパイ』(The Spy Who Came in from the Cold;1963年刊)だろう。ジョン・ル・カレ自身、冷戦下、西ドイツの首都ボンの外務省下で諜報活動をしていたいわばその道のプロだった。
また、冷戦はアメリカに反共の狂気を生んだ。
一体全体、何人の人が東から西へ逃れようとベルリンの壁を乗り越え、トンネルを掘り、失敗し、殺されたことだろう。
第7回:バッハの顔 その1
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