第52回:7年ぶりの故郷
更新日2003/03/13
米国の移民局、I.N.S.(イミグレーション・ナチュラリゼーション・サービス)は、我々外国人にとっては実に重苦しい空間である。ビザの発行などの手続きなどで、毎回4、5時間の待ち時間が余儀なくされる。書類に一つでも落ち度があれは、当然のように翌日に廻される。
今回、私は米国永住権(グリーンカード)取得のため、山のような書類を手に順番を待っていた。今日は、審査官との最終面接の日であった。リュック一つで日本を飛び出してから7年。いまだ一度も帰国はしていない。
今までこの日のために頑張ってきたようなものだった。米国在住の外国人にとって、これは大きな難関である。しかも、米国の政府機関の仕事は、実にスローで良心的なサービスなど程遠い。
いよいよ私の順番が廻ってきた。緊張は最高潮に達していた。この機会を失うと、面接の日は何ヶ月先になるか分らない。個室に案内され、初老の男性審査官と向き合った。
審査官は、書類に目を通しながら言った。
「日本は裕福な国なのに、君はなぜ米国に永住したいのかね?」
と単刀直入な質問であった。私は、
「私に大きなチャンスを与えてくれたから。」
と答えた。
「そうか、さらに合衆国のためにそのチャンスを生かしなさい。」
と、言いながら私の日本のパスポートを開いて、大判のU.S.Permanent Resident(米国永住者)のスタンプを押してくれた。それは、グリーンガード発券を意味するものだったのだ。なんと、僅か10分程度の呆気ない面接だった。
私の頭の中を、今までの米国での冒険や出来事が走馬灯のように駆け巡った。
「サンキュー・ベリー・マッチ・サーッ!」
と言いながら、思わず、私は彼に対して頭を深々と下げる日本式の礼をしてしまっていた…。
究極の緊張感から開放され、相変わらず混雑しているI.N.S.の建物を出ると、念願の目標を達成したせいか、外のカリフォルニアの太陽がいつもより眩しかった。
「自由の国よ、ありがとう。」と心の中で呟いた。

私は、これを機に社長に10日間の休暇を申請した。永住権を取得した今、ビザなしで日本と米国間を自由に行き来できるようになったので、一度日本に帰国したいと思ったのである。社長も快くその思いを受け入れてくれた。
1ヶ月後、私はサンフランシスコ国際空港にいた。今まで何人もの日本人を見送った空港の通関を通り抜けた。そして私を乗せたユナイテッド航空の飛行機は、太平洋を越え日本の空を目指していた。
機内にはビジネスマンも多かったが、米国にきた時のように無理をして、“ウォール・ストリート・ジャーナル”を読むこともなかった。これが、7年の間に米国で唯一身についた自然体というスタイルなのかも知れない。
今回は、家族や親戚、友人に会うための日本への一時帰国だった。長距離の移動に慣れていない私には太平洋を横断する10時間は苦痛だったが、久しぶりに故郷に帰れるのは嬉しくて仕方なかった。機内サービスのお酒を飲むと、今まで米国でひたすら走り続けたせいか、熟睡してしまった。
やがて眼下に、緑豊かな島が見え始めた。
「日本だっ!」
長年、カリフォルニアで過ごしていると、その山の濃厚な緑がやけに新鮮に見えた。やがて飛行機は、関西国際空港に着陸しようとしている。私が出発した時にはなかった、海に浮かぶ巨大な空港だった。米国で更新した、真っさらのパスポートに入国スタンプを押してもらい、念願の帰国を果たした。
そこから私の目に映ったのは、正に“ジャパン”という外国だった。これは、海外滞在が長い人にしか分らない感覚だと思えるが、歩いている人たちがすべて日本人という極めて異常な空間に思えるのだ。
久しぶりの大阪の実家は、私の予想以上に小さく見えた。7年ぶりに会う両親、弟、猫までもが健在で私の帰国を喜んでくれた。私の部屋は、まだ空き部屋になっていた。悩み抜いた末、飛び出した窮屈な空間は、まだタイムマシーンのようにそこに存在していた。
あの時、この渡米への決断がなければ、今頃、私は日本で何をしていただろうか? 日本脱出を見送ってくれた友人たちも集まり、夜中まで話は尽きなかった。彼らにしてみれば、海外旅行の機会が増えた今でも米国は遠い異国だった。
翌日、田舎へ私の渡米中に亡くなった祖父母の墓参りに行き、無事の帰国を霊前で報告した。米国にはない山野の香りも昔と変わらない。自分が日本人であることを再認識した。
また、久々の日本でもう一つの大事業のために広島に向かった。私には、米国で知り合った日本人の婚約者がいて、その両親にも日本式の挨拶をするために出向いたのである。
その両親も、娘が米国で生活しているので、それには理解があったが、“拳銃で仕事をしている”私の職業に対しての偏見は隠せなかった。それは無理もなことで、結婚を承諾してもらうには時間がかかりそうに思えた。
あっという間の10日間だったが、治安もよく親類縁者がいる日本は、私にはあまりにも心地よかった。明日からまた、米国へ仕事に戻ろうと思った時、これからのさらなる飛躍を目指して、私の中に新しい決意が生まれた。
「独立しよう!」
それは、米国で自分の可能性を試すための、新たなチャレンジの始まりだった。
第53回:再びラスベガスへ