方丈記 第十二回
庵のある場所について言えば、南のほうに、岩で流水を溜めて竹の樋で水を引く懸樋(かけひ)があり、近くには林もあるので、火を焚く爪木(つまぎ)を拾うのに苦労はない。林は音羽山の一角で、まさきの葛の木がたくさん生えている。谷間のほうは木々が生い茂っているけれども、西のほうは眺望が開けていて、瞑想をして仏さまや浄土のことを心のうちに想い描く観念を行ったりするのに良いと言えなくもない。
春には紫色の花房が風に吹かれて揺れ動く藤波が見える。そのさまは、まるでお釈迦様が冥土に行かれる時に乗ったといわれている紫雲のようであり、花々が咲き匂う西方(さいほう)のことを想わせるほどに、西の方は一面、紫色の藤の花でおおわれる。
夏にはほととぎすの声が聞こえる。その声と言葉を交わすようにして、自分が死んでこの場を離れ、山を越えて逝く時には、道案内をしてくれるようにとの約束を交わす。
秋には、あたり一面に日暮(ひぐらし)の声が満ちて、まるで蝉(せみ)が、このはかない世を哀しんで鳴いているかのように聞こえる。
冬は雪をあわれ慈しむ。積もり、やがて消える雪は、まるで人の極楽往生をさまたげるこの世の罪障(ざいしょう)のようにも見える。
このような日々のなかで、念仏を唱えるのが面倒で、読経に精が出ない時には、それは休むようにして、あえて自分から怠ったりもする。そうしたところで、それを咎める人がいるわけでもなく、怠けているようすを見られて恥ずかしいと思うような人もいない。わざわざ無言の行をしているわけではないけれども、そうして一人で暮らしていれば、体がもたらす罪、思いがもたらす罪、口がもたらす罪の三業(さんごう)のうちの一つの口のわざわいは自ずとおかさずに済む。また禁を破ろうにも、なにしろ、周りに煩悩をかき立てるような境界(きょうがい)、つまりは状況や境遇そのものがないわけだから、必死に自らを戒める必要もない。
もしも自分に、水面を行く船の、すぐに消え行く白波のような儚さを感じた時には、遠くに見える岡の屋のあたりの湖(うみ)を行き交う船を眺めて、出家僧の歌人、満紗弥にでもなったかのような気分になり、風が、桂の木の葉を鳴らすような夕べには、白居易の琵琶行の詩に謳われた潯陽江に想いを馳せて、和歌や漢詩のたしなみの深かった源都督(げんととく)こと源経信の生き方に倣ったりする。
もし興が乗って思いが溢れるような気分になった時には、しばし松の葉が風に鳴る音などを聴きながら、それに琴の名曲である松風楽(しょうふうらく)を自分で弾いて合わせたり、水の音を聴きながら、それに流泉の曲をあわせてみたりもする。巧く弾けるわけではないけれども、人に聴いてもらって人の耳を喜ばせようというわけではなく、ただ一人で調べを奏で、感じたことを詠んだり謡ったりして、自分で愉しみ、情感をやしなうだけのことに過ぎない。
※文中の色文字は鴨長明が用いた用語をそのまま用いています。
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