方丈記 第十六回
世の中の人々がことごとく住む家を造るという習慣は、必ずしも、自分自身のためというわけではない。むしろ、妻子のためであったり、身内の人や奉公人などの眷族(けんぞく)や、親しい人や、一緒に側でくらしたい朋友(ほうゆう)を住まわせたりするためにつくる。
もしくは主君や師匠、さらには家財などの財宝や牛馬を置いておくために家をつくりさえする。そういうことで言えば、自分がつくった庵は、自分が住むためだけのものであって、人のためにつくったのではない。
どうしてそういうことをしたかといえば、このような世の中にあって、多くの人がそうであるように、自分は今、たった一人の独り身であって、伴侶がいるわけでもなく、頼りにできる従者がいるわけでもなく、たとえ大きな家をつくったところで、泊める人もいなければ、一緒に居着いてもらうような人もいない。
そもそも、人々が友としたいと思うような人というのは、お金持ちだったりするということが第一で、仲が良いからとか、優しいからとか、必ずしも、情があるからとか、素直だからというような理由で友にするわけではない。
そんなわけで、友といったところで、琴や琵琶や笙などを用いての糸竹(しちく)、つまり音楽を奏したり、花月の風流を愉しむことがもたらしてくれる喜びには及ばない。
使用人にとっては、何かにつけて褒美をちゃんと与えてくれ、手厚く恩寵を施してくれる人かどうかが何より重要であって、その上さらに主人が、情け深く、思いやりと共に養ってくれたり、心が穏やかで安心感がある人かどうなどは、二の次でしかない。
だから、自分で自分を使用人にするのが一番良くて、その場合、もちろん何かやらなくてはいけないことがあれば、それは自分がやらなくてはならず、何をするにしても、面倒だったり疲れたりしないというわけではないけれども、それでも、人を雇い従え、情をかけたり、面倒をみたりすることに比べれば、ずっといい。
歩かなくてはいけない時には、自分の足で歩くだけで、馬がどうの鞍がどうの牛車がどうのと、心を悩ますよりはずっといい。
※文中の色文字は鴨長明が用いた用語をそのまま用いています。
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