方丈記 第十七回
いま私は、自分の体を二つにわけて二つの用をさせている。一つは手で、これには使用人の役割をさせている。もう一つは足で、これが乗り物の役目を担っているが、これがなかなか私の想いにかなっている。なにしろ、私は自分の心身の苦しみを知っているから、体がきつい時には休ませるし、元気で快調な時にはよく使う。そういう場合でも、繰り返し使って使い過ぎるようなことはしないし、体がなんだかだるくて面倒くさそうにしていても、だからといって心が動揺したりはしない。
なんといっても、常に歩いたり、常に動いたりすることは、自らの体を元気な状態に保っておくための養生にほかならない。だから、やたらと休んだりして体にいいはずがない。なんだかんだといって休むというのは心の病であり、罪をつくるもとともいうべき罪業であって、そもそも自分のことをやるのに他人の力など使っていいはずがない。
衣食についても同じことがいえる。藤の皮などで作った衣服や、粗末な麻の寝具などが手に入れば、それで肌を覆い、野辺で手に入れた嫁菜や、山の峰で拾った木の実、そういうもので細々と生きていければそれで十分。
人とのつきあいがなければ、みすぼらしいものを着て人に会った事を後悔する必要もないし、食べる物が少ないからこそ、そのわずかな糧を頂戴できる喜びも味わえる。一事が万事、なにもかも、そうして暮らしを愉しんでいけばいいのだということは、なにも、お金のある裕福な人に対して言っているわけではない。なによりもまず自分のことを振り返って、昔の自分と今の自分とを見比べて、私がそう思えることにほかならない。
何といっても、三界での出来事はみな、心から生じることなのであって、もし心が安らかでなければ、お釈迦様の国の乗り物を引く立派な象や馬も、また七つの宝も、つまらないだけのものであって、宮殿や楼閣を仰ぎ見たところで、ありがたくもなんともない。今の私の、寂しげな住まい、たった一間の庵こそが、私が心から愛せるもの。たまたま都に行かなくてはならなくなった時に、都で感じる、自分が乞食のように見えるだろうことへの恥ずかしさも、この庵にかえってくると、そんなふうに、いろんなことに気を使い、通俗な雑事を追って駆け回ることが、かえって哀れに想えてくる。
もし今、苦しい生活を送っている人で、私の言っていることに疑いを持つ人がいたならば、魚や鳥の生きざまを見よと言いたい。魚は水の中に住んで飽きることがないけれども、どうしてそうなのかは、そうして生きる魚の心を持たない人にはわからない。鳥は林を好むけれども、鳥でなければ、その心のうちは分からない。こうして閑居する者の気持も同じであって、こんな暮らしをしてもみないで、どうして私の言っていることが分かるだろうか。
※文中の色文字は鴨長明が用いた用語をそのまま用いています。
第十八回
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