■新・汽車旅日記~平成ニッポン、いい日々旅立ち


杉山淳一
(すぎやま・じゅんいち)


1967年生まれ。東京出身。東急電鉄沿線在住。1996年よりフリーライターとしてIT、PCゲーム、Eスポーツ方面で活動。現在はほぼ鉄道専門。Webメディア連載「鉄道ニュース週報(マイナビ)」「週刊鉄道経済(ITmedia)」「この鉄道がすごい(文春オンライン)」「月刊乗り鉄話題(ねとらぼ)」などWebメディアに多数執筆。




第1回~第50回まで

第51回~第100回まで

第101回:さらば恋路
-のと鉄道能登線-

第102回:夜明け、雪の彫刻
-高山本線-

第103回:冷めた囲炉裏
-神岡鉄道-

第104回:再出発の前に
-富山港線-

第105回:世界でただひとつの車窓
-JR氷見線-

第106回:真冬のフラワーロード
-JR城端線-

第107回:鉄道は誰のものか
-万葉線-

第108回:藤の花咲く鉄路
-樽見鉄道-

第109回:長大なるローカル線
-近鉄養老線-

第110回:かつて幹線、いま庭園鉄道
-名古屋鉄道尾西線-

第111回:快進! アーバンライナーPlus
-近鉄名古屋線-

第112回:5652メートルの教訓
-近鉄大阪線-

第113回:未来都市・千里ニュータウン
-地下鉄御堂筋線・北大阪急行電鉄-


第114回:旅立ちはグリーン車
-箱根紀行・序-

第115回:寂しいお別れ
-駒ヶ岳ケーブルカー-

第116回:王国の盛衰
-駒ヶ岳ロープウェー・芦ノ湖観光船-

第117回:本場のわさびソフトクリーム
-十国峠ケーブルカー-

第118回:遠回りの帰り道
-伊豆箱根鉄道・松田短絡線-

第119回:愛知万博へ
-愛知環状鉄道(高蔵寺-万博八草)-

第120回:未来鉄道リニモ
-愛知高速交通(万博八草-万博会場)-

第121回:アスファルトの線路
-2005年日本国際博覧会協会愛・地球博線
第122回:走るパビリオン
-2005年日本国際博覧会協会愛・地球博線 その2-

第123回:古戦場遠望
-愛知高速交通 東部丘陵線(万博会場~藤が丘)-

第124回:地下鉄とタワーと
-名古屋市営地下鉄東山線-

第125回:途中下車
-ゆく路、くる路-

第126回:途中下車
-初夢・時刻表にない列車-

第127回:餘部鉄橋と特急出雲
-途中下車-

第128回:旅を作る
-途中下車-

第129回:旅の予算
-途中下車-

第130回:"ブルトレ"ブームの記憶
-寝台特急出雲 1-

第131回:一期一会
-寝台特急出雲 2-

第132回:深夜の別れ
-寝台特急出雲 3-

第133回:朝の山陰をゆく
-寝台特急出雲 4-
第134回:さらば 出雲号
-寝台特急出雲 5-

第135回:神々の地へ
-一畑電鉄北松江線・大社線-

第136回:国引き神話の道
-一畑電鉄北松江線-

第137回:妖怪鉄道
-JR境線-




■連載完了コラム
感性工学的テキスト商品学
~書き言葉のマーケティング
 
[全24回] 
デジタル時事放談
~コンピュータ社会の理想と現実
 
[全15回]

■更新予定日:毎週木曜日

 
第138回:雪中カメラ行軍 -JR山陰本線・餘部鉄橋-

更新日2006/04/13


連れだって旅に出るとすれば、夜も共に行動したり、共に食事したり、相手が相応の女性であれば共に眠ったりすると思う。しかし私とM氏は男同士だし、境港駅で早めの夕食を摂ったし、明日の朝は早い、というわけで、21時頃に鳥取駅に着くと駅前のコンビニに寄って夜食を調達し、ビジネスホテルにチェックインした後は解散となった。仲が良いのか悪いのか解らないけれど、お互いに気楽な行動である。明日の集合は午前5時。つまり、ホテルの滞在時間は約8時間。ちゃんとしたベッドがあるところではしっかり眠っておくべきだ。登山家や兵士のような行動と仲間意識、というところか。

翌朝、ロビーのパソコンでインターネットの天気予報をチェックしているとM氏が降りてきた。昨夜は大雨だったけれど、今朝は小降りになっている。天気予報によれば天候は回復基調のようだ。そんな話をしながら、私たちは小雪がちらつく暗い道を鳥取駅へ歩いた。山陰の朝は遅いというが、明け方に向かっているのに、もっと暗くなっていくような気がする。こんなに早起きした理由は、5時28分発の一番列車に乗るためである。今日は朝から昼まで餘部鉄橋を眺め、上りの特急はまかぜで大阪へ向かい、新幹線で帰路に着く予定だ。一番列車には所用客が数人、そして私たちと同じような姿が数人。


始発列車で餘部駅に到着。

鉄橋を眺めるなら、もっと明るい時間のほうがいい。しかしこの時間に出かける理由は、鉄橋の上を通過する列車を見たいからである。6時50分ごろに上り特急はまかぜ2号が通過する。7時10分ごろに下り寝台特急出雲号が通過する。これは私たちが昨日乗った列車である。そして、13時05分に下り特急はまかぜ1号が通過する。この3本が餘部鉄橋を走る花形列車で、その間に数本の各駅停車が通過する。6時50分に餘部鉄橋でカメラを構えるために、鳥取発5時28分の各駅停車に乗り、浜坂で各駅停車に乗り継ぐと、餘部駅に6時32分に着く。

真暗な餘部駅。雪が降っている。照明灯に照らされて白いホームが浮かび上がっている。ホームの位置が低いので、闇にダイビングするように降りた。M氏は元気よく先に進み待合室に向かった。そこにはなんと"先客"がいて、昨日からここに泊まっているという青年だった。国内のバックパッカーにとって、無人駅に宿泊することをエキネという。私もかつて午前二時に美幌駅に着いて美幸線の始発を待ったことがある。しかし、この雪の中、かなり根性が要る宿泊である。

缶ジュースの自販機も無く、トイレも無い。そんな場所で約10分の休憩をしたのち、私たちは餘部鉄橋へ向かった。といっても餘部鉄橋は餘部駅に隣接しているし、列車撮影の名所だけあって撮影者用の広場が設けられている。鉄道ファンからは通称"お立ち台"と呼ばれている場所だ。餘部駅は崖の上にあり、ホームの鉄橋よりから下へ降りていく道がある。その道の入り口にもうひとつ上っていく道があって、これがお立ち台への通路だ。雪積を踏みしめ、滑らないうに慎重に上っていくと、八畳間ほどの広場がある。三脚を立てやすいように、コンクリートで固めた足場も用意されている。

その特等席はすでに先客で混んでいたので、私たちは少し下がって、階段の途中に陣取った。着込んでいるのであまり動きたくない。私は上はTシャツ2枚にフードつきトレーナー、その上にフードつきベンチコート。下はジーパンの上に、バイクで冬のツーリングに行くときに使うオーバーパンツを履いている。もちろん靴下は2枚。それでも震えるほど寒い。いったいこれはなんという苦行だろうか。

ここからは左手前から右の奥へと鉄橋の線路が見渡せる。しかし雪が強く、鉄橋の奥は白く消えかかっていた。ようやく闇の世界が青みがかってきたけれど、鉄橋の向こうにあるはずの海が見えない。この暗さでは撮影が難しい。よほど高価なフィルム用カメラに明るいレンズを装着しないとシャッター速度を上げられないだろう。私のデジカメもそこそこ良い性能だが、なかなかピントを合わせられなかった。レンズの明るさはf2.8で、レンズ一体型デジカメの中では明るいほうである。しかし、なかなかセッティングが決まらない。

あたふたしているうちに、最初のターゲットのはまかぜ2号が手前から現れた。シャッターを押してみたけれど、赤いテールランプが長く延びている。失敗である。列車の姿を止められなかった。カメラというのは露出とシャッター速度が反比例する関係になっていて、明るい画を得ようとするとシャッター速度は遅くなる。夜景を撮るときはシャッターを開けっ放しにするくらいだ。しかし走行中の列車をきちんと取るならシャッター速度を上げる必要があり、画面は暗くなる。


出雲号が通過した。

私はシャッター速度優先の設定にし、連射モードで次の出雲号を狙った。暗い上に雪が降っているから、カレンダーや雑誌に出ているような写真にはならないけれど、なんとか列車の姿は止められた。プロカメラマンは晴れた日ばかり狙うから、こういう厳しい冬の写真が世に出ることは少ない。むしろ貴重な写真が得られたと自分を慰めた。

次の花形列車、はまかぜ1号は13時過ぎに通過する予定だ。6時間以上もある。お立ち台に居座り続けると凍え死んでしまいそうだ。私たちは駅の待合室に撤退し、今後の予定を検討した。餘部鉄橋の撮影ポイントはお立ち台のほかに、鉄橋のたもとや防波堤などがある。鉄橋見物の宿として有名な民宿には喫茶店が併設されているので行ってみたい。そしてなにより、餘部鉄橋事故の慰霊碑にもお参りしたい。

待合室には私たちのほか、アマチュアカメラマンの御仁が3人。そして、もうすこし若いカメラマンのふたり連れがいた。彼らとしばらく歓談する。御仁は3人とも鉄道ファンで私たちの大先輩。そのうちのひとりは餘部鉄橋そのもののファンで、四季を通じて何度も訪れているそうだ。餘部ファン氏は周辺の道や撮影ポイントに詳しく、よいアドバイスをいただいた。今回の旅は出会いに恵まれている。若いカメラマン氏は、鉄道ファンというわけではなく、風景写真家らしい。仕事でもカメラを使っているが、今回は何かの展覧会に出品する写真を撮るために、山陰を西から巡っているそうだ。

明るくなってきたので、普通列車の写真も撮った。その後、私たちは凍ってすべる坂道を慎重に降りつつ、餘部の町に入った。街へと下る道の入り口に壁画がある。これは餘部駅建設の様子を描いたものだ。餘部鉄橋は1912(明治45)年に開通したが、餘部駅は戦後の1959(昭和34)年である。それまで餘部の人々が鉄道を利用するためには、山道を登り、徒歩で鉄橋を渡り、トンネルを潜って鎧駅に向かったという。実際に見渡せば、肝試しのような行動だ。地元の要望がかなって駅が作られるときは、餘部の人々も参加したという。だから、壁画に描かれた工事作業者は、ほとんど普段着の人々である。


餘部駅建設の様子を描いた壁画。

鉄橋の橋桁のしたはもう民家である。1986(昭和61)年、こんな場所に突風で煽られた客車が落ちてきたのである。客車は水産工場に落ち、従業員と車掌が死亡した。これにより餘部鉄橋の風速規制が厳しくなり、さらには鉄橋の架け替え計画に至るのだ。私たちは路地を歩き、民家を伝って国道に出た。体が冷え切っているので、喫茶店に飛び込んでコーヒーで身体をあたためる。

餘部鉄橋の全景の写真を撮るべく、私たちは防波堤に向かった。餘部駅から眺めると遠い場所に思えたけれど、実際の道のりはさほどでもなかった。もっとも、着込んでいるから歩みは遅い。小さな船着場を通り抜け、防波堤の突端でカメラを構えた。冬の荒れた天気である。波も高く、カメラにしぶきがかからぬように気を使って撮る。

鉄橋のふもとに戻り、慰霊碑を見物した。仏像だけではなく、ちいさな仏壇が作られていた。私たちはそこにあった線香に火をつけた。きっと遺族がろうそくやマッチ、線香を絶やさぬようにしているのだろう。冷たい風が吹く中で、蝋燭の火はすぐに消えてしまったけれど、線香からはよい香りの煙が立ち昇った。


防波堤から。


慰霊碑を見上げる。

はまかぜ1号で締めくくる前に、私たちはもう一度喫茶店に寄って昼食にした。御仁トリオやカメラマン氏と再会する。私がトイレに行っている間に、M氏は餘部ファン氏と意気投合したようで、絶好の撮影ポイントがあるらしいので一緒に行くことになった。ついていくと、そこはどう見ても墓場であり、お寺の敷地であり、よって私たちは不法侵入ではないかと思われた。墓石の下の人々も騒がしいと迷惑しているのではないか。祟られたらどうしよう、と思ったけれど、なんとそこには、撮影に便宜を図ったかのような場所があった。

ちょうど晴れ間が見えてきた。海と空を背景にはまかぜ1号をカメラに収めると、私たちのタイムリミットだ。まだ残って撮影を続けるという餘部ファン氏にお礼を言って、私たちは再び山道を登って餘部駅へ。気温が上がってきたせいか、道は氷が解けて歩きやすくなっていた。ホームの雪も踏み荒らされて、駅がきちんと機能していることを知らせていた。赤いディーゼルカーに乗り鉄橋を渡る。私は墓場を眺め、餘部ファン氏の姿を認めるとシャッターを切った。この写真の送り先として、彼の連絡先を聞いておけばよかった。


はまかぜ1号が通過した。

-…つづく

第133回からの行程
(GIFファイル)