第四十回
風姿花伝 その六
花修云(かしゅうにいわく) その一の二
能を作る際に、詩歌の言葉を用いる場合は、やさしくて、聞いただけで何のことを言っているかが理解できる言葉を選ぶべきである。分かりやすい言葉と、能の振りを合わせれば、不思議と、自然に体が、幽玄の風情をまとうものである。難しく堅苦しい言葉は、振りになかなか合わない。ただそうはいっても、難しい言葉の耳遠さが、逆に良い場合もある。それは曲の本質と演者の体とが上手く合った場合であって、漢に由来する言葉であれ、和の言葉であれ、そのもともとの意味や来歴を良くわきまえる必要がある。ただし、卑しい言葉や俗っぽい言葉や風情などでは、良い能にはならない。
つまり良い能の曲というのは、そのよりどころである本説がちゃんとしていて、そのなかにどこか目新しく心を引かれるものがあり、かつ、筋道が通っていて幽玄に通じるものが一番である。見ていてそれほど目新しいところはなく、すぐ分かるけれども、面白い要素があるものを二番とすべきであるけれども、ただ、これはおおよその話であって、能というものは、上手な人が演ずることで、どこかちょっとした風情の表し方によって、面白くなるものなので、いろんなものを演じて、日々努力を重ねれば、たとえ悪い能の曲であっても、ところどころ工夫を凝らして見どころのあるように演ずれば、面白く見えるものである。
したがって、能というものは演じる時期や季節、また同じ曲でも、それを演目のどこに配置するかで違って見えるものでもあるので、悪い能だからといって不必要というものではない。そういう意味では、良いも悪いも、為手がそれをどのように扱うかという、その心遣い次第と考えるべきである。
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