第十七回
風姿花伝 その二
物學(ものまね)のいろいろ
鬼
これはなによりもまず、大和(やまと)のものであって、その難しさにおいて、たいへん大事な物まねである。大体において、怨霊(おんりょう)や憑物(つきもの)が取りついたものとしての鬼は、面白く演ずるための手がかりも多いので難しくはない。為手(して)に相対(あいたい)している演者であるあひしらひに向かって、細かくて手足を使って、鬼の印として頭にかぶる物頭(ものがしら)に合うよう働(はたら)けば、そこに面白くみせる手がかりに通じるものがある。
しかし本当の冥土の鬼というのは、よく考えてみれば恐ろしいだけのものであって、面白いところなどあるわけもない。実際のところ、大事のなかの大事というべき難しい態(わざ)であるので、これを面白く演じられる者は稀(まれ)である。それというのも、この態(わざ)の本意はまず、強く、恐ろしげであることにあるが、この強さ恐ろしさを、面白さに変えることができればよいが、それがなかなか難しい。
つまり鬼の物まねというのは、そもそも大変難しいものであって、鬼というものの本質からいって、よく演じれば演じるほど面白味があるはずがない。もともと恐いのが鬼であって、恐いと思う心と面白いと思う心には黒白(こくびゃく)の違いがある。したがって、もし鬼を演じてかつ面白いところがある為手(して)は上手を極めた為手と言ってよい。
ただ、そうはいっても、鬼を上手く演じることが出来るからといって鬼ばかり演じる者は、あえて言えば、花を知らない為手である。年若い為手が鬼を上手く演じたとしても、それほど面白くはならないように、鬼だけを上手く演じる事が出来る者の鬼は、実は、その鬼そのものも面白くはないという道理もなりたつ。とにかくこれは委(くわ)しく習うべき態(わざ)であって、鬼を演じてなお、そこに面白さを感じさせるほどにこの態(わざ)を嗜(たしな)む事ができれば、その能は、まるで巌(いわお)に花が咲いたかのように見えるだろう。
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