第五十九回
風姿花伝 その七
別紙口伝 その八
秘する花を知ること。秘してこその花、秘すということなくしては花とはなりえない、と言われているけれども、花というのは、それが何であり、どういうことであるかを知る、ということこそが大切である。そもそもこうしたことのすべて、芸能のさまざまな技芸において、それを受け継ぐ家々には、それぞれに秘事とされることがあるが、それは、秘するということが、大いに役立ってきたからにほかならない。
つまり、秘密とされていることというのは、ひとたび表に顕にしてしまえば、わざわざ秘めておかなくてもいいのではないか、と思われるようなことが多いけれども、だからといって、秘すということを不必要なことと言う人がいるとすれば、それは秘事というものがもつ大きな役割や効果を知らないからそう言うのである。つまり、この花ということについての口伝(くでん)においても、花というのは、見る人の目に珍しいこと、目新しいこととして映らなければならないと述べたけれども、もし演ずる側の心得としてあるそのことを、表に出して万人に知らしめてしまったならば、観客は、さあいつ珍しいことをするかなと、それを待ち受けるようにして能を見るようになる。そうなってしまっては、どんなに珍しいことをしたとしても、みている人の心にはもはや、目新しいこととして映らなくなってしまう。
見る人たちにとっては、どんな花を演じ手が見せようとしているかが分からないからこそ、花は、為手してがつくりだす花となり得るのであって、見る人が、それを花と思うかどうかは別として、為手の成すことに、予想を超えた面白さを感じたとすれば、それこそが為手のつくりだす花にほかならない。ようするに、見る人が、思ってもみなかったことや、そのような気持を感じさせるということ、その手立て、それこそが花にほかならない。
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