第208回:流行り歌に寄せてNo.20 「東京キッド」~昭和25年(1950年)
最近は、いろいろなことで「自分も年を取ったなあ」と思うことが多い。今回、改めてその気持ちを強くしたのは、美空ひばりの曲について書こうとして彼女の享年を確認したところ52歳とあり、もうそれよりも4年も長く生きている自分に驚かされたからである。
また一方で、美空ひばりの晩年は、正直もうかなりのおばさんというイメージが強かったので、逝ってしまったのがまだ52歳の若さだということにも驚いている。
そして考えたのが、彼女が実年齢よりもかなり上に私の目に映っていたのは、歌い続けた年数に関係があるのではないかと言うことだった。
ステージ・ママのはしりと呼ばれる母親の喜美枝が、地元の横浜近郊で、それこそミカン箱のステージの上に乗せ、ひばりに慰問活動を始めさせたのが、日本の敗色が濃くなっていた昭和19年頃のこと。彼女が小学校に上がるかどうかの時だった。
それから45年近く、彼女は歌い続けていた。もし、普通の歌手たちのように15、6歳で歌い始めたとすれば、60歳になっているのである。そういうことだったのではないか。
「東京キッド」 藤浦洸:作詞 万城目正:作曲 美空ひばり:歌
1.
歌も楽しや 東京キッド いきでおしゃれで ほがらかで
右のポッケにゃ 夢がある 左のポッケにゃ チュウインガム
空を見たけりゃ ビルの屋根 もぐりたくなりゃ マンホール
2.
歌も楽しや 東京キッド 泣くも笑うも のんびりと
金はひとつも なくっても フランス香水 チョコレート
空を見たけりゃ ビルの屋根 もぐりたくなりゃ マンホール
3.
歌も楽しや 東京キッド 腕も自慢で のど自慢
いつもスイング ジャズの歌 踊る踊りは ジタバーグ*
空を見たけりゃ ビルの屋根 もぐりたくなりゃ マンホール
*ジタバーグとはジルバのこと
昭和24年、美空ひばりは『河童ブギウギ』で12歳の年にレコード・デビューを果たし、同じ年に発表した『悲しき口笛』が大ヒットして同名の松竹映画も作られ主演した。
その翌年に発表されたのが『東京キッド』で、やはり同じ年に同名の松竹映画も封切られている。13歳の美空ひばりは、映画では靴磨きの少女という設定だが、この歌自体の設定も職業は明らかではないが、いわゆる浮浪児を描いたもののようだ。
彼らを『東京キッド』と呼んだところに藤浦洸のセンスが伺える。これは彼らの「背伸び」と「やせ我慢」の歌だと思う。みんな生きていくために、生意気で、こまっしゃくれていて、そして思いっきりやせ我慢をしていたのだろう。
その前年の『悲しき口笛』の映画の中の美空ひばりは、シルクハットに燕尾服、時々今で言う「どや顔」を振りまきながら、大きなクラブでバンドをバックに踊りを交えながら、朗々と歌う。
この子ども離れしたこまっしゃくれ振りの裏側には、彼女自身もまた精一杯背伸びをしながらやせ我慢を続けていた、痛いほどのひたむきさが感じられるのである。美空ひばりは、こんなに小さいときから、つっぱって、がんばって生きてきたのだろう。年を取るのも早くなる訳である。
ところで、映画『東京キッド』での共演者に花菱アチャコと川田晴久がいる。アチャコについては私も以前からいくつかの映画をビデオで観る機会があったが、川田晴久(旧芸名:義雄)という人は名前ぐらいしか知らなかった。
よく見かける『東京キッド』の映像でも、ひばりの横でギター伴奏をしているおじさんくらいの認識しかなかった。
ところが、今回いろいろと調べていると、ひばりの芸能界での育ての親は川田その人であることがわかった。ひばりを見出した頃の川田は、当時大変に人気のあるヴォードヴィリアンであったのだ。
昭和10年に坊屋三郎、芝利英、益田喜頓とともにボーイズものの元祖「あきれたぼーいず」を結成し、大エンターテーナーとして知られた川田は戦後も相変わらずの人気を誇っていた。
まだ無名だったひばりを、昭和23年5月、まず自分の横浜国際劇場の公演に抜擢し、その後、自身の「川田一座」に参加させて芸能界デビューの足掛かりを作ったのだ。
ひばりも、川田を心から慕って「アニキ」と呼び、その歌い方の節回しも彼から大きな影響を受けたらしい。後年、彼女は、「私が師匠と呼べる人は父親と川田先生だけ」と語っている。
その川田は、美空ひばりが初めて紅白歌合戦でトリを務めた年、それは昭和32年のことだが、その晴れ姿を見ることができず、半年前の6月に都内の病院で、50歳の若さで亡くなっているのである。
-…つづく
第209回:流行り歌に寄せてNo.21
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