第504回:流行り歌に寄せて No.299 「ふるさと」~昭和48年(1973年)7月15日リリース
三拍子の美しい曲である。私は、この曲を最初に聴いたとき、最も印象に残ったのは「洗いざらしのGパンひとつ」という箇所であった。
それまでの、いわゆる演歌の中には出て来なかったであろう詞で、たいへんインパクトがある。山口洋子の優れた手腕だと思う。
ここでGパンを履いているのは、故郷を恋しく思っている現在の自分であって、赤いネオンの空を見上げているのも同じ人物だ。(確かに、五木ひろしには白いTシャツとGパンは似合いそうである)
その他は「小川のせせらぎ」「赤い野苺」「緑の谷間」「仔馬は集い」「杏の花の」「囲炉裏ばた」と望郷の定番のような言葉が並ぶ。おそらく、山口洋子も、平尾昌晃も、このような長閑な風景を見ながら少女、少年期を過ごしたわけではないと思う。
そのような経験を、持たざる人たちの作品のような気がする。だからこそ、多くの人たちの心に届いたという言い方ができるかも知れない。
私は、この曲までに五木ひろしの名義で出したシングルのA面8曲は、ほぼ聴いているが、このように穏やかな曲調のものは初めてだった。この人も、こういう歌を歌うのだなぁと、今までにない親近感を抱いたことを憶えている。
本名、松山数夫である五木ひろしは、福井県美浜町の出身。中学を卒業した昭和38年(1963年)3月、長姉を頼って京都に行き、まず関西音楽学院に入学し、翌昭和39年5月に作曲家の上原げんとの内弟子になるために上京する。
上京からわずか4ヵ月後の9月に、第15回コロムビア全国歌謡コンクールで優勝し、コロムビアの専属歌手になる。翌昭和40年6月に、初めての芸名「松山まさる」で『新宿駅から』で、念願のレコード・デビューを果たす。
さあ、これから歌手生活を軌道に乗せようとしていた矢先の同年8月に、師匠の上原の急死により、彼の生活は暗転する。松山まさる名義で6枚、一条瑛一名義で3枚、三谷謙名義で1枚の合計10枚のシングル・レコードを出すが、なかなかヒットには結び付かなかった。
その後は銀座でクラブ歌手として歌っていたが、プロの歌手として背水の陣で臨んだのが、テレビのオーディション番組『全日本歌謡選手権』。厳しい評価をする審査員も少なからずいたが、結果的には10週連続で勝ち残り、グランドチャンピオンとなった。
かなり辛辣な評価をする審査員に対し、それぞれゲスト審査員だった平尾昌晃と山口洋子は、彼を擁護していたという。私も、当時この番組を観ていて、彼がグランドチャンピオンになった回は憶えている。
一度だけ、山口洋子のつけた中川淳という名義で日劇の舞台に立ったが、その後、五木ひろしとなる。これは、山口洋子のクラブ『姫』のお客でもあった五木寛之から、彼女が苗字を拝借し、「いいツキをひろおう」という意味でつけられたものだそうだ。
そして、昭和45年3月1日『よこはま・たそがれ』(山口洋子:作詞 平尾昌晃:作・編曲)で、五つ目の芸名のデビューを果たしたのである。松山まさるのデビューからは、5年が経過していた。
「ふるさと」 山口洋子:作詞 平尾昌晃:作曲 竜崎孝路:編曲 五木ひろし:歌
祭りも近いと 汽笛は呼ぶが
洗いざらしの Gパンひとつ
白い花咲く 故郷が
日暮りゃ恋しく なるばかり
小川のせせらぎ 帰りの道で
妹ととりあった 赤い野苺
緑の谷間 なだらかに
仔馬は集い 鳥はなく
あー 誰にも 故郷がある
故郷がある
お嫁にゆかずに あなたのことを
待っていますと 優しい便り
隣の村でも いまごろは
杏の花の まっさかり
赤いネオンの 空見上げれば
月の光が はるかに遠い
風に吹かれりゃ しみじみと
想い出します 囲炉裏ばた
あー 誰にも 故郷がある
故郷がある
五木ひろしと芸名を変えた後は順調にヒット曲を出し、今回の『ふるさと』の次に、同昭和48年10月20日にリリースされた『夜空』で、念願の日本レコード大賞を獲得している。
この『ふるさと』と『夜空』の2曲には面白いエピソードがある。この年の賞レース及び紅白歌合戦の披露曲は、五木陣営としては『ふるさと』を選んでいた。『夜空』のリリースが10月下旬ということで、賞取りの戦略的には遅すぎると踏んだのだろう。
ところが、11月20日に行なわれた第3回日本歌謡大賞では、沢田研二の『危険なふたり』に大賞を持っていかれ、危機感を感じた五木陣営は急遽方針を変えて、日本レコード大賞には『夜空』で臨むことにした。
そして、その年の大晦日、『夜空』は見事に第15回日本レコード大賞を受賞する。番組終了後は、大急ぎで会場の日比谷の帝国劇場から、NHKホールへと移動した。
(実は、この年の第24回NHK紅白歌合戦から、会場が千代田区内幸町のNHK東京放送会館から、新設された渋谷区神南のNHKホールへと変更された。その後何年かにわたり、両番組に出場する歌手が、帝国劇場から急いでNHKホールへ移動する様子が中継されたりして話題になった。それができることが、スター歌手である証とされていたのである)
そして、紅白歌合戦で披露した曲は、NHKに予め登録されていた『ふるさと』であった。その年のレコード大賞受賞曲を紅白歌合戦で披露しないのは、この時が初めてのことだった。五木本人も後日「この年は僕も『夜空』よりも『ふるさと』で賞レースを戦おうと思っていました」と語ったという。
2曲とも、作詞、作曲、編曲者が同じだったからよいが、どれか一つでも違っていたら、少し問題になったかもわからない。
それにしても、五木ひろしは、芸名を変えてから日本レコード大賞にはめっぽう強い。昭和46年『よこはま・たそがれ』と翌47年『夜汽車の女』で歌唱賞、その翌48年に、前述の大賞を受賞している。そして翌49年には『みれん』でその翌50年には『千曲川』で最優秀歌唱賞を獲得、5年連続の受賞である。
因みに『夜空』が紅白歌合戦で初披露されたのは、平成11年(1999年)の第50回の時、レコード大賞受賞から26年が経過していた。それだけ、毎年着実にヒット曲を出してきた証拠だろう。
-…つづく
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