第5話:ジャスミンの季節に
更新日2002/03/12
一年半ほど前になるだろうか。私が、茶荘をはじめて、ちょうど半年を数える時期だった。商売もようやく軌道に乗り始め、何度か足を運んで下さる顔なじみの常連さんも、ちらほらと出始めていた頃。若い方が多い中で珍しくご年配のKさんは、近所にお住まいで、散歩のついでにちょくちょく店に顔を出して下さった。
話の端々に知性がにじみ出る、そんな話され方が印象的な方だった。
彼のお気に入りのお茶といえば、「大極香片」。芽を大切に摘んで作ったジャスミンティーだ。旨みとジャスミンの甘い香りのバランスが絶妙なお茶である。
店で飲んだ味を奥様に、とおっしゃっては、しわしわの顔をほころばせて茶葉を手に、嬉しそうに店をあとにされるのが常であった。
「いらっしゃいませ。いつものお茶、お入れしますね」
「最近、あまりお顔を見ませんがいかがですか?」
「いや、ちょっと忙しくてね」
この時、彼の顔が翳ったのが、妙に心に引っかかった。その日は、他愛もない話をしてお帰りになったが、その後、彼が店に姿を現す度に、目に見えて痩せ細っていくのが分かった。
隣の築地川公園に、ジャスミンが咲き乱れる頃、風の便りに、Kさんが亡くなられたことを知らされる。彼の奥様は、店の前を通りかかり、挨拶をかわすことはあったが、Kさんのことを思い出すのが辛いのであろうか、店内に入られることはなかった。
先日、奥様がふらりと店にいらっしゃった。
「ジャスミンティーを頂けるかしら?」
新人のアルバイトが店の定番、「特級香片」を入れる。
「そうね、美味しいわね」
美味しいとは、おっしゃるものの、他のお客様が必ずといっていいほど見せる、「美味しい笑顔」が咲かない。いぶかしげなアルバイトの横から、マネージャーは、Kさんのお気に入りだった大極香片が注がれた茶杯を差し出した。
「この味よ」
奥様の顔に、大極香片の香りのような、さわやかな笑顔が咲いた。
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