■清香茶房(ちんしゃんさぼう)〜中国茶にまつわる話あれこれ

戸恒慎司
(とつね・しんじ)


東方文芸復興・恒記茶荘(アジアンルネッサンス・こうきちゃそう)店主。食のプロが集う東京・築地で中国茶の専門店を開く。中国茶にまつわるさまざまな疑問や質問に熱く答えます。



第1回:不釣合いな場所・不釣合いなお茶

更新日2001/12/01 


10年前、23歳の私は香港生活2年目。見るもの全てがまだ目新しい頃、飲茶の老舗で出会った4000香港ドル(約68000円)のプーアール茶とは?

耳の裏を流れる汗で目を覚ました。窓を開け、火を付けた煙草は腐った漬物の味がして寝起きを最悪に変える。

彼女は「人参ドリンク」のCMの撮影から戻ってからは乾いた鼻息のまま眠り続けている。駆け出しのモデルにはなかなかお望みのクライアントに恵まれないらしい。便秘薬に生理用品。24時間営業のサウナなんてのもあったっけ。ミャンマー人と中国人のハーフ。生まれてから父親の顔は見たことがなく、母親が香港に住んでいる事は知っているのだけれども正確な居場所は判らないと言う。そんな彼女が私の部屋に転がり込んで来てから2ヶ月になろうとしている。

彼女とはTV番組のコーディネイトの手伝いをしている時に知り合った。ウエイトレスの役の彼女は、主役の俳優に誤ってビールをこぼしてしまう役。ためらいも無く大胆にビールをこぼす姿に単純だったが惚れてしまった。

そんな彼女の寝息が音を立て始める。もう一本煙草に火を付けてテレビのボリュームを上げる。

「じゃあ、今日。陸羽茶室で2時に。OK?」 「OK?って…。今、何時なの?」

「もう、9時。隣の幼稚園じゃ『お歌の時間』だぜ。」

「いいじゃない。お歌の時間なんて。今日はゆっくり寝たいの。一人の昼間ってやること無くてつまんないんだから。」

「だから言ったじゃないか、陸羽だって。飲茶でもしようって。」

「陸羽なんて年寄りと観光客しか居ないじゃない。高くて冷めた点心しか出ないじゃない!酒店(ホテル)の中に入っている雰囲気のいい場所でも飲茶なら出来るわ。九龍ホテルの地下にしましょうよ。それなら。わざわざトンネル潜って中環(セントラル)まで行く事ないじゃない。」

「だって、じゃあ、教えてあげよう。ジョン・ローンが2時に来るんだってよ。陸羽に。2階の個室ってところまで判ってるんだ。ATVのプロデユーサーが来いって言ってるんだから本当さ。ひょっとしたら仕事になるかもしれないじゃないか。いきなり映画出演だって・・・。あと、もし、女連れてくるんだったら、彼は身長があまり高くないから『ヒールは履かせてくるな』って言ってたぜ。」

「判ったわ。2時ね。」

 時計が1時を廻ると雨が降り始めた。約束の時間には早かったが、陸羽の個室なんて入った事も無かったし、貴重な場所で彼女と二人きりで話しもしたかった。石畳の坂道を流れる雨が、皮底の靴を台無しにしている事はわかっていたけれども、なにせ相手はハリウッドスターだ。当時23歳の私には知りたい事しか無かったし、20歳そこそこの彼女もそうだったに違いない。約束の30分前には二人とも席についていて彼らが着くのを待っていた。

「私、個室って始めて。金持ちの年寄りしかこの店『陸羽』には来ないって印象良くなかったけれど、いいもんねこの雰囲気も。」

「そりゃ、そうさ。前の場所から移転した時も、内装はこのまま移築したんだってよ。」

「あんたって物知りなのね。日本人って物知りよね。基本的に。」

「日本人って…。お前知ってるの?俺以外の日本人?」

「そりゃ、知ってるわよ。この仕事始めるまで、売れないモデルの前は夜総会(ナイトクラブ)の売れっ子ホステスよ。」

「そういや、そうだったよね。」

顔の見えない相手に軽く嫉妬して煙草の箱に手を伸ばした。

「やめなよ、煙草は。彼が吸わなかったらまずいじゃない。」

「いいじゃないか。灰皿別に用意してもらうよ。まだ、約束の2時まで30分もあるんだぜ。」

ウェイターを呼ぶ。

「灰皿をくれませんか。あと、お茶も持って来て。ATVの張さんがお茶も用意してあるって言ってたから。」

マッチが乗った真鍮製の灰皿が運ばれて来た。

「この灰皿って何年使ってるの?ずいぶん古そうだけれど。」

「もう、30年近くじゃないかねえ。」

ウェイターが答える。

「お茶、もう用意しちゃっていいんですか?」

「持って来て下さい。」

「いいの?」

「構いやしないさ。お茶くらい。」

机の上の携帯電話が鳴った。モトローラの旧型。国語辞書1冊分の重さはある。着信にもかかる通話料を恨みながら受話器のボタンを押した。

「張だけど、今、どこだ?」

「もう、陸羽着いて2階の個室で待ってます。」

「そりゃ悪いな。陸羽、キャンセルだ。お前、何か適当に食って帰りなよ。領収書貰っといてくれたら後で金払うから。」

「ところでどうしちゃったんですか?」

「ジョン・ローン。彼さ、会いたい人がいるとかでこっちも振りまわされっぱなしなんだ。」

「そうですか。判りました。適当に食って帰りますから。」

ステンレス製の急須に入ったお茶が運ばれて来た。

「これ、頼まれていたお茶ね。30年もののプーアール茶。」とウェイター。

「色、余り濃く出ないんだね。」

「いいプーアール茶ってのはね、すぐには色は出ないもんなんだよ。」

「黴臭くもないし、プーアール茶って感じはしないんだけど。」

彼女も不思議そうだ。 あっという間に急須の中は空になった。お湯の差し替えを頼む。

「次にはもっと味が出て来ますよ。」

色は一煎目より濃くなりはしたがプーアール茶独特の黴臭い匂いは全く無い。 6人掛けのテーブルに並びきれない点心はどれも満足のいく味だったし、初めての年代物のプーアール茶の不思議な魅力にも痺れっぱなしだった。

「この30年物のプーアール茶っていくらするんですか?」

「4000香港ドル(約68000円)」

二人は息を呑んだ。財布の中からカードを探す。点心と合わせれば5000香港ドルは下らないだろう。参った。不釣合いな場所、不釣合いなお茶。そして不釣合いな23歳に無性に腹が立ち始めた。背伸びも中々勇気がいるものだし、着ていたアルマーニのスーツにも、雨で濡れたグッチのローファーにも。隣で腸粉をつまんでいる20歳そこそこのモデル見習にも何故か意味もなく腹が立ち始めた。

それなりの男にふさわしいお茶ってものが香港にはある。それなりの男に相応しい場所も。見えない10年後に焦って席を立つ。

「ちょっと焦ってるな、俺。」

「わかってるわよ。あんた見てれば。いいじゃない。今日は10年後の予行練習。リハーサルよ。」

 

→ 第2回:「台湾茶」?「中国茶」?

 
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