■ダンス・ウィズ・キッズ~親として育つために私が考えたこと

井上 香
(いのうえ・かおり)


神戸生まれ。大阪のベッドタウン育ち。シンガポール、ニューヨーク、サンフランシスコ郊外シリコンバレーと流れて、湘南の地にやっと落ち着く。人間2女、犬1雄の母。モットーは「充実した楽しい人生をのうのうと生きよう」!


第24回:相手の立場に…

更新日2001/09/25 

深夜近くに、ぼーっとテレビを見ていたら、かつての恩師が画面に現れてびっくりした。彼は、文化人類学のなかでも異文化の理解についての研究では、日本では間違いなく第一人者である。久しぶりに講義を聴いたようで、また短い時間で多くのことを学んだ。ニューヨークのテロ事件について彼は語っていた。

そのなかでも、一番はっとさせられたのが「最近の傾向として、早い情報のみが重要視されているが、じつは現代のような高度情報化社会においても、異文化を、他者を理解する、ということは、外国語の習得を例に取ってみると明らかなように、非常に時間のかかることであり、またこれは決して軽視してはならない重要な問題である」ということだ。

その言葉どおり、情報機器の発達によって家庭にいても、インターネットに乗れば望む情報が瞬時に手に入る。往々にしてそうして得られた情報は使い捨てというには言葉が過ぎるかも知れないが、新鮮なものほど重要であるような錯覚に陥りやすい。けれども、人間の情報処理能力はそのような機械の発達にはまったく追いついてはいない。時間をかけてしか理解できない種類の情報は、私たちの日常生活のなかでも非常に重要なことである。異文化あるいは他者という言葉を使うと日常生活からはかけ離れた学問的なことのような気もするが、この「異文化」や「他者」という言葉は、日常生活においては簡単に「相手」と置き換えてもよい。

自分を振り返って考えてみても明白なのであるが、トータルで10年にも満たない海外生活をする前とした後では、私の考え方はまったく変わったと言っても過言ではない。そこから得たことは、非常に簡単なことである。「自分が実際に経験したことのないことについては、噂はもとより確からしい情報でさえ鵜呑みにしない」それと、「相手の立場に立ってものを考え、感じる努力をする」ということだ。それは、娘たちにも私ほどの時間をかけずに学んで欲しいと思う。

よく、上の子供は幼稚園で仲良しのお友だちとちょっとしたケンカをしてくる。「○○ちゃんは、いじわるなんだよ。だってあんなこと言うんだもん」「○○ちゃんとは、もう遊ばない。だって、こんなことするんだもん」という他愛ないことで、1日経てばすっかり忘れているようなことである。けれども、こう聞いてみる。「でもね、○○ちゃんには、そうするだけの理由があったんじゃないかな」「○○ちゃんが、そう言う前にあなたはなんて言ったの?」(これはじつは私自身が幼い頃に私の母から頻繁に聞かれた耳の痛い質問でもある)

そこにはけっこう本当の理由といったものが隠れていたりする。だから、「じゃあね、あなたが○○ちゃんにそう言われたら(そうされたら)、あなたはどう思うの?」と聞く。「いやだ」と娘。「自分がされたらいやなことをお友達にしてはいけないとは思わない?」「う~ん…いけないと思う」 歳が幼いだけにこういうところはなかなか素直だ。

この、「それを自分がされたらどんな気持ちがするの?」というのは日常生活のなかで結構私が娘に対して使う常套句で、仲のよい友だちには好意をもってからかわれる種になっている。けれども、相手の立場に立ってものを考えるという客観的な思考ができるか否かでは、子どもたちが大人になっていく過程においては非常に重要なことだ。私も相手の立場に立ってと心がけていても、不注意な言葉を親しい人にさえ言ってしまったと後悔しない日はないくらいだ。これを実行することは本当に難しいことで、毎日自分を戒めていてもやっぱりいたらない自分にうんざりする。娘たちに対しても、つい心ない言葉を言ってしまう。けれども、言葉もやはり武器になる。これは、忘れてはならないことだ。

最後に、恩師が講義を締めくくるときに言った言葉。 「この、他者を理解しようとするという行為は現代社会における我々にとっては、実は最大のセキュリティ(安全保障)でもあるのです」

 

→ 第25回:「罪」から子供を守る