■よりみち~編集後記

 


■更新予定日:毎週木曜日


更新日2004/07/22


人間がぷか~ぷか~と浮くという死海にでも入って脱力したいわー。なんて思ってしまうのは、暑さのせいか、疲れのせいか、アホなせいか…。浮きたいけど、浮かれられない夏。死海は無理でも死海の塩なら手に入る。ってなわけで、最近はまっているアロマショップで精油がブレンドされた死海の塩をゲット、お風呂でアロマで死海なのだ! さすがに家の風呂じゃ浮けなかったけど、気持ちは少し軽くなったかな。いつかは死海、行ってみたいもんですなあ(※実際の死海は塩の濃度が高くてとってもヒリヒリするらしい。悪しからず)。(瀬尾


最近、気になることがある。一つは電車の中での光景だ。その昔はといえば、老いも若きも電車内では中年以降は新聞や雑誌、そして年齢が若くなるとマンガ本や文庫本などを寡黙に読みふけっているというのが、日本の電車の風景だったが、最近かなり変化してきたように思える。電車内の定番行為として、「携帯電話を開く」というのが日常化して、新聞やマンガ本を読んでいる人が明らかに減ってきた。これだから出版不況になり、青山ブックセンターまでが倒産するわけだ。先日、ギョッとしてしまったのだが、座席に座っていた隣りの女性が、なにやらせわしなく携帯メールを打ち込んでいる姿が気になって、さらに視線を車両全体に移していくと、車両内に座っている人のほとんどが老いも若きも携帯電話でメールを確認していたり、文字を打ち込んでいたり、とにかく自分の携帯電話とにらめっこをしていたのだ。もちろん私自身もよく電車内でメールやニュースをチェックしたり、お気に入りのサイトをチェックしたりするのだが、車両の中で座っている人がほとんど全員が携帯電話を目の前にしている光景を目にしたのは初めてのことで、携帯電話の普及率のすごさを実感した瞬間だった。ただ、ギョッとしたと書いたように、ちょっと異様な光景に思えたことも事実で、ここまで増えてくると、もっと違うスタイルがあってもよいように思えてくる。単に私が天邪鬼なせいかもしれないが、画一化というのがどうも気持ちよくないのだ。画一化つながりで気になる光景の二つ目が、あの「回転ドア」だ。かなり多くの回転ドアが使用禁止になっている。六本木ヒルズでの幼児の死亡事故以来のことだ。国土交通省の調べでは、全国に大型回転ドアは466台が設置されているそうで、388台が使用中止にしたり、回転停止にしたりしているらしい。使用中が128台だそうで、六本木ヒルズでの事故以来、27%しか稼動していないことになる。この数値は六本木ヒルズタイプの大型のもので、実際には小型も多く、稼動率はさらに低いように思える。一人の幼い子供が犠牲になったことは痛ましい出来事ではあるし、親として気をつけなければならない教訓がたくさんあることは確かだが、なぜに日本は右にならえですべて極端な判定を下してしまったり自己規制を極端に強化してしまうのだろう。使用できない回転ドアは不便そのものである。回転ドアのメリットがたくさんあって採用されていたはずで、その歴史はすでに100年以上あり、多くの改良がされてきているはずだ。その100年の歴史を一人の幼児の事故だけで消してしまうつもりなのだろうか? それでは、エスカレータや電車の自動ドアはどうして止めないのだろう? 転落事故や引き込まれ事故はかなり多いはずだ。日本の場合、結局は責任論になるから、事故が起こる前に使用中止という発想になるのだ。これはイラクでの人質事件で注目された「自己責任」という考え方が日本では実にあいまいで、どこかに甘えの構造があるからだと思える。日本のように公共施設や交通機関でアナウンスがこれほど多い国はどこにもない。こんなに親切でユーザー思いな国はないという見方がある一方で、そのアナウンスはすべて事故があった場合や責任を問われないための防衛策という見方もある。「電車が到着します。白線まで下がってお待ちください」という親切なアナウンスは、実は、「白線まで下がらないで怪我をしても私らの責任じゃないけんね。ちゃんと言ったかんね!」という意味で、はっきり言って、我々は子供扱いされているわけだ。そういう意味で、日本の公共施設などでのお節介アナウンスがなくなったとき、初めて日本が大人の国に成長したということなのかもしれない。(