■よりみち~編集後記

 


■更新予定日:毎週木曜日

 

 

 

 

 


更新日2004/08/12


お盆の季節になったが、この「お盆」の語源はいろんな説があるようだ。一般的な解釈としては、仏教の盂蘭盆会(うらぼんえ)を略したもので、語源はインドのサンスクリット語の「ウッランバーナ」の音訳で、倒懸(とうけん=逆さ吊り)を意味し、地獄の責め苦から救うという意味があるらしい。お釈迦さまが、餓鬼界に堕ちて苦しんでいる弟子の母を供養して救うことができたという故事がその始まりとされている。実に仏教的な救済思想に沿ったアジア特有の風習だろう。お盆には親戚がお墓を目指して集ることになるので、血でつながった家族ということを考えさせられる。アジア的な家族のきずながこのような宗教的な行事によって守られているわけで、日本ではその伝統が徐々に失われてきていることも実感する。高齢化で老人ばかりが目立ち、集る親戚は年々その数が減ることになるわけで、墓地の面積ばかりが拡張されている感じがする。そのお盆に合わせた法事が母方の本家であって、久々に(10年ぶりくらいだろうか)生まれ故郷の町を訪ねてきた。自分が生まれた家はずいぶん昔に消えていて、その位置も分からないほどになっている。思い出に残るのはその家の前にあった細い路地だけだった。自宅で生まれてから小学校3年生の夏までそこで育ったので、断片的な記憶はかなり多いのだが、実際の風景と全くつながらなくなってしまっている。さらにそのスケール感や距離感の違いにも驚かされる。聞くとこれは誰でものようだ。子供の頃の記憶ではかなり遠くにあったはずの建物がほんの数十歩の距離に突然現れたり、すごく大きな建築物だと思っていた建物や物体がまるでミニチュアのように小さく見えたりと、まるでガリバーになってしまった心境で、呆然と立ち尽くしてしまうのだった。小学校の頃には町一番の大きな建物だったバスターミナルがその当時のまま残っていたが、かつての賑わいもまるでなく、その当時はとても近代的だと思っていた外装も、いまではこれ以上古臭い建物はないほどになってわびしく佇んでいた。“生まれ故郷は遠くにいて思うもの”とはよく言ったもので、すでに自分の故郷も自分の頭の中の空想の世界にしか存在しないということのようだ。その頭の中の故郷では、誰もが歳をとらず、小学校3年生当時のまま時間が止まったままのようである。(K

 

 

 


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