■よりみち~編集後記

 


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更新日2005/09/15


最近、屯田兵のことをたまたま調べる機会があり、自分の生まれた北海道と関係の深い存在のことを何も知らなかったことに我ながらあきれてしまった。その歴史は感慨深いものがあった。最近、吉永小百合の久々の主演映画として話題になった『北の零年』があり、江戸末期からの北海道開拓の歴史が描かれていたのだが、どうも没落した武家の物語という印象が強く、百姓と漁師の子孫である自分にはなかなか感情移入が難しく、他人事のように観ていたのだが、その時代と平行して屯田兵制度がスタートしていたわけだ。明治7年に開始され、廃止される明治37年まで30年間続いたという。調べていて驚いたのが、3年間という期間限定契約であったということだった。区画した土地に、平屋の家屋、それに食糧などが毎月支給されるかわりに、家族はその土地を開墾して自給自足できるように畑をつくること(水田は禁止されていたそうだ。その理由は寒くて稲は育たないと当時は考えられていたからだそうだ)、軍事教練に参加することが義務付けられていた。実際に日露戦争などにも従軍しており、思っていたよりも本格的な軍隊だったようだ。区画された土地というと、現在のような分譲地を想像しがちだが、実際は大いに異なり、原生林が生い茂る超荒地だった。後に移民で有名になったブラジルもそうだが、原生林との闘いが移民の歴史そのもののようだ。屯田兵時代はまだ馬や牛などの家畜はほとんどおらず、原生林を切り倒して畑を開墾するのは人力以外になかった。特に原生林を切り倒した後に残る切り株の除去が一番厄介な仕事だった。北海道の原生林は半端な太さではない。木を切り倒すだけでも相当な体力と根気が必要なはずだ。そして問題は切り株である。地中深く根を張った切り株は化け物のように思えたはずだ。おまけに馬も牛も重機もない人力だけの作業である。なんでこんなところに来てしまったのかと己を呪わなかった者はなかっただろう。ただ、軍人だったことから思わぬ知恵が生まれたようだ。切り株の除去に爆薬を使うことを思いついた人がいるのだ。根っ子ごと爆薬でこなごなにしてしまう方法はかなり普及したようだ。北海道のどこまでも続く田園風景のほとんどがこの開拓時代に入植した人々の苦労の結晶であり、その歴史もまだほんの百年に過ぎず、自分の曽祖父の時代の出来事である。屯田兵には当時としてはそこそこの住居が与えられ、3年間ではあったが保障があっただけましな暮らしだったという。いわゆる士族と呼ばれる武士の出身者が多かったようだが、中にはなんちゃって士族もいたそうであるが、農民や漁民に比べるとかなりよい暮らしだった。それでも開墾した畑で3年後に自給自足できた人はほんの一握りの人だったそうで、途中で逃げ出す人や土地の売買が許可されると売り払う人も多くなったそうだ。北海道の当時の寒さは今と違って生死の問題だったはずだ。明治時代の暖房といえば薪と炭だけであり、家屋には断熱材どころかガラス窓さえなく、ゴム長靴どころか藁の雪靴程度の時代である。今ではどのように越冬していたのかさえ、考えも及ばないほどである。屯田兵の歴史を調べていて、実際には会ったことはないが、モノクロの肖像画に収まっている曽祖父たちの苦労がほんの少しだけ分かった気がした。(K

 

 

 

 


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