第2回:ワイアット・アープとOK牧場の決闘 その2
更新日2010/03/25
今回、ワイアット・アープとOK牧場の決闘のことを書くために、このジョン・フォードの名作をDVDで借りて見直した。UCLA(カリフォルニア、ロスアンジェルス大学)の映画保存庫にはジョン・フォード・オリジナル版と一般公開された版が保存されている(ジョン・フォードの無声映画の大半が失われていることを知って驚いたが)。
一般公開されている方は、もともと会話の少ないジョン・フォード作品に説明的映像を加え、また復讐劇としての筋を強調している。両方ともストーリーの展開とテンポの遅さに時代を感じることには変わりはない。しかし、一つひとつのシーンの綺麗さ、画面の構図の安定感は、ショットの長さを感じさせない。ジョン・フォードの『駅馬車』を40回見たというオーソン・ウエルズにはかなわないが、今回私は『荒野の決闘』を3度見直し、まだ飽きなかった。
もう一本の名作は、その名の通り『OK牧場の決闘』と題した、バート・ランカスターとカーク・ダグラスが競演し、娯楽映画の巨匠ジョン・スタージェスが監督したのものだろう。ジョン・スタージェスと言えば、『荒野の7人』『大脱走』を撮った活劇の名手で、『OK牧場の決闘』が余程気に入ったテーマだったのだろうか、10年後にもう一度、ジェイムス・ガーナーをワイアット・アープにして撮り直している。
このジョン・スタージェス監督、1957年、バート・ランカスター、カーク・ダグラス版『OK牧場の決闘』は活劇娯楽に徹した作品で、善玉、悪玉のラインをはっきりと打ち出し、クラントン一家との対立が徐々に緊張を増し、最後に両者の決闘に雪崩れ込む過程に中学生の私は瞬きをすることすら忘れて見入ったのを覚えている。そして、デミトリ・チオムキンが作曲し、フランキー・レインが歌った主題歌はいつまでも頭の中に響いていたものだ。さすがに恥を知る歳になっていたのでフランキー・レインを真似て「OK、OK、ガンファイト、OK、コラール」と歌い歩くことはしなかった。
OK牧場の決闘は、事件が起こった当時から、ダイム小説(10セントで買える安売りのペーパーバック本)で数え切れないほどのバージョンが生まれ、伝説化したが、西部史上特筆するほどの大事件になったのは、映画の影響が大きい。そして、これほど史実とかけ離れた伝説が流布した事件もない。
フレーモント通り。
この通りから入った空き地で事件は起きた。
第一に、事件はOK牧場で起こらなかった。決闘はツームストーンの町を東西に走るフリーモント通りと3番通りの角近く、フライ写真館の西隣の空き地で起こった。OK牧場はなんとも響きの良い名前だが、事件の起こった空き地から50メートルほど離れたところにある馬の一時預かり所、今流に言えば駐車場で、広々とした牧場というイメージからは程遠い狭い牧舎だった。
馬に乗った旅人が、町で過ごすときに一時的に馬を預け、飼い葉と水を与えてくれる馬小屋をコラールと西部では呼んでいた。
ツムストーンの町並み。
決闘記念プレート。
そんな史実に誰が構うものか、ツームストーンの町、OK牧場の決闘でいいではないか、たかが50メートルしか離れていない場所でのことだ。「フライ写真館脇の空き地での決闘」では、題からして締まらない……と言うのだろう、現在、ツームストーンの町はOK牧場の決闘、このひとつに頼って存在しているような観光地になっている。
私が住んでいるコロラド州の西に位置する田舎町から、2日がかりのドライブでツームストーンを訪れた。観光地になっていることは知っていたし、大火で旧市街が消滅したことも知識としては知っていたが、ハリウッドの安手の西部劇セットをそのまま持ち込んだような町並みに乗り入れたとき、あまりの俗化に唖然とさせられたことだ。この町のキャッチフレーズが言うように"The
town too tough to die"(死に絶えるにはタフすぎる町)がツームストーンなのだ。
西部劇そのもののサロンバーがあちらこちらにあり、大きく胸の開いた娼婦のドレスを着たウエイトレスがかいがいしくビール、ウイスキーを注いで回り、ラグタイムピアノが鳴り響く。西部劇スタイルの服を着せて写真に納める写真屋もバーの中でセールスの余念がない。食事のメニューは、ハンバーガーとステーキの2本立てオンリーだ。
観光地化したアレン通り。
通りには、カウボーイ姿に身を固めた若者が誰かれなく声をかけ、"OK牧場の決闘再現ショー"への勧誘の声をかけている。黒ずくめのギャンブラー仕立てにピシット決めた御仁は、カウボーイ用の帽子屋の客引きだった。テンガロンハットの銘品といわれているスタットソンに多少心が動き、店に連れ込まれ、帽子を頭に乗せられ、とてもよくお似合ですよと言われ、鏡を見たら、ヤニ下がった初老の東洋人が鍋でもかぶっているようなブサマな顔がこちらを見ていた。
悔しいことだが、我々の顔、形は、カウボーイハット向きにできていないのだ。百歩譲って、メキシコ流の馬鹿でかいツバが付いたメキシカンハットなら頭に乗せて歩いてもどうにか正視に堪えるのではないか。
それにしても、戦後間もない日本で、私の親父はよくぞこんなカウボーイハットをかぶり、西部劇スタイルで街中を闊歩していたものだと、親父の勇気というより無神経さにあきれたことだ。
ドライブに2日もかけて訪れたツームストーンだったが、半日もおらずにこの町を去った。
-…つづく
第3回:ワイアット・アープとOK牧場の決闘 その3