第1回:ビリー・ザ・キッド その1
130年目の恩赦?
西欧人はとかくやることが執念深い。諦めることを知らず、水に流すなんてもってのほかで、とりわけ、一度恨みをかうと何時までも覚えていて、機会あるごとにそれを思い起こさせようとする。
アメリカに住むようになってから初めて知ったことだが、"パールハーバー・デイ"というのが、未だに毎年のように大々的にマスコミに取り上げられるのにあきれた。パールハーバー襲撃の日(1941年12月7日)は、ワールドトレードセンタービル崩壊のテロ事件の日が"911"としてアメリカ人の記憶に焼き込まれたのと同様に、アメリカの歴史に永遠に刻まれることになるのだろう。
個人的な怨恨も何世代にも渡って尾を引く。それに政治的な色付けでもあろうものなら、大いに利用することにためらいはない。
話は飛ぶが、ニューメキシコ州の知事、ビル・リチャードソン(彼はクリントンが大統領だった時、エネルギー大臣を勤めていた)が130年前に要求された恩赦の申請を認め、無罪を言い渡そうとした。もちろん、恩赦を申請したご当人は遠の昔に死んでいるのだが、ともかく話題性は高く、全国のテレビ、新聞に書きたてられた。130年前にその恩赦を要求したのが、21歳で21人を殺したといわれているアウトロー、ビリー・ザ・キッドだった。
Billy the Kid(Henry McCarty)
1859年11月23日-1881年7月14日
ビリー・ザ・キッドは、ニューメキシコ(当時は領域)で死刑の判決を受け、縛り首になるのを待っていたところ、監視人二人を撃ち、脱獄逃亡し、執念のシェリフ、パット・ギャレットに撃ち殺された。ビリー・ザ・キッドがまだ獄中にあったとき、彼は当時の知事ルウー・ウォレスに恩赦を申請する手紙を書いている。この手紙は驚くほど綺麗な文字で、しかも正しい英語で書かれており、地方の大学で教鞭をとっている私の連れ合いに見せたところ、「私の生徒たちよりはるかに立派な英語だ」と嘆息したほどだ。
ビリー・ザ・キッドが獄中からニューメキシコ領の知事ルウー・ウォレスに
送った恩赦請求の手紙。なかなか端正な字面だ。
ビリーの恩赦請求に対し、ときの知事ルウー・ウォレスは1878年の殺害事件(リンカーン郡の戦争と言われている殺し合い)に関しては恩赦を約束したのだが、空約束で実行しなかった。もっとも、ビリー・ザ・キッドは他にもかなりの数の事件を巻き起こしてはいたのだが…。
それを、130年経った今頃になって、リチャードソン知事がたとえ大昔であろうと、一度知事たるものが約束したのなら、その約束を履行しなければならない、と言い出したのだ。
ビリーには直系の現存者がいるわけでなし、この恩赦は、ビル・リチャードソン知事の売名行為、スタンドプレイだとか、いや、ニューメキシコ州の観光(アウトローゆかりの村や町を訪れる観光客は多い)に大いに役立つとか言われ、ともかく話題になったことだけは確かだ。
だが、この恩赦に妙なところからクレームがついたのだ。ビリー・ザ・キッドを殺したシェリフのパット・ギャレットの孫だという男が、「それじゃ、うちの爺さんのパットの立場がなくなるじゃないか、恩赦になった人間を撃ち殺したことになるんだから」と、正式に裁判所に恩赦取り消しを要求したのだ。
いろいろな説があるにしろ、一般的にはパット・ギャレットは、ビリーがベッドで寝ているところを撃ち殺したと信じられており、"執念深い"上に"冷血"という評判がパット・ギャレットについて回ることになった。いくらなんでも寝込みを襲うのはフェアじゃないというわけだ。
その時ビリーが寝ていたのが、ペート・マックスウエルのベッドだったところから、殺されたのはペートで、ビリーは銃声を聞きつけ、まんまと逃亡し、今流に言えば、アイディンティティを変え、テキサスで平穏な生涯を過ごしたとか、負傷したがそのまま逃げおおせたとか、ヒーロー伝説に付き物の諸説が流れている。
現知事のビル・リチャードソンは、パット・ギャレットの末裔と面談することを約束したので、またマスコミの目を集めて会見の様子、内容が写真入りで報道されることだろう。
まだビリー・ザ・キッドの恩赦を発令するかどうかの裁定は下されていない。知事にとっては、これだけ話題になったのだから、それで十分というところだろう。
-…つづく
第2回:ビリー・ザ・キッド その2 ~出生の秘密
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