第2回:ビリー・ザ・キッド その2
出生の秘密
「出生の秘密」などと週刊誌的なタイトルをつけたが、ビリー・ザ・キッドの生まれた場所も、誕生日も確定されていない。それどころか、父親は誰かということも大いに疑問がある。どうにか母親だけは分かっていると言えそうだが、これにさえ、生みの親と育ての親、里子に出したとか、疑問を挟むリサーチャーもいる。
ビリー・ザ・キッドは、1859年の9月17日、もしくは11月20日、あるいは11月23日にニューヨーク、あるいはインディアナ、ミズーリー、オハイオ、イリノイ、ニューメキシコ、しまいにはアイルランドのリメリックのどこかで生まれたと言われている。
一番有力なのはニューヨーク説で、1840年代にアイルランドを襲った歴史的大凶作(飢餓とコレラで1840年に810万人の人口が、10年後には650万人に減っている。 多く見積もる者は250万人、少なくとも150万人がこの飢饉で死んだとされている。 この大飢饉がアイルランドからアメリカ、カナダへの大移民の引き金になった)の後、キッドの母親のキャサリーンが両親と共にアメリカはニューヨークにたどり着き、数年下働きで口のりをしのいでいる。
遅れてきた移民集団のアイルランド人は、ニューヨークでスラム的なアイリッシュタウンを造り上げ棲んでいた。1860年には、ニューヨークに81万3,669人のアイルランド人が住んでおり、それは当時のニューヨーク全人口の4分の1に当たる。とりわけファイブポイント地区とマーベリベンド地区は悪の巣窟で、麻薬、アルコール、売春が公然と行われ、アイリッシュマフィアが町を牛耳っていた。
キッドはヘンリー・マカーティーとして、そんなアイリッシュタウン、アレン通りの70番で生まれたという説が有力ではあるが、出生届のような公式的な記録はない。母親のキャサリーンがキッドにそう語り、キッドの兄ジョセフ(弟という説もある)が後の国勢調査で自分の出生地としているというだけがよりどころだ。
このアウトローシリーズでもインターネットで覗くことができる古い国勢調査をずいぶん参考にしている。大勢を掴み人口の流れを読む分には大いに役に立つが、個々の条項、個人情報には信頼がおけない。
昨年行われた全米の国勢調査では、インターネットで返信できるようになった。通常一軒一軒、調査員、臨時雇いのアルバイトが訪れ、家族構成、人種、収入など尋ね、それに応える形で調査書を作成する。いずれの場合にしても、何とでも言えるし、すべて嘘で固めても、法的な罰則措置はない。個人情報が政治的、主に税務署などに行くことはない。
キッドの兄か弟のジョセフにしても、1880年の国勢調査のとき、コロラド州の銀山のブームタウンだったシルバートーンに住んでおり、そのときの国勢調査では21歳と答え、その5年後、1885年、同じコロラド州のアラパホ郡に住んでいたときにも21歳と答えている。5年間歳をとっていないのだ。1885年の調査を信用すれば、1863年か1864年生まれで、キッドの弟ということになる。
ところが同じジョセフ先生、1920年の国勢調査のとき、カルフォルニアに住んでおり、64歳と答えているから、1855年か1856年に生まれたことになり、キッドの弟から兄貴に変身したのだ。
ジョゼフは1930年に76歳で死んでいる。これも死亡届けの記入を信用すればという条件が付くにしろ、1854年生まれになる。ジョセフ兄さん、自分の生年月日くらい、マジメに答えなさいよ、と言いたくなる。
どちらでもいいような小さな疑問を、チマチマと古い国勢調査、新聞などを調べ、一つの事実を掴んだ喜びに目を眩まされる危険性が常につきまとうのだ。
父親の名前も、パトリック、マイケル、ウイリアム、エドワードとばらつき、しまいにはキャサリーンが浮気な尻の軽い女だったから、関係した男の誰の種を授かったのか分からないと言い出す者もあるくらいだ。実際のキャサリーンは赤貧洗う貧しさではあったにしろ、敬虔なカトリック信者で男を渡り歩くタイプではなかったのだが。
一説では、キッドの本名はウイリアム・ヘンリー・ボニーであり、同じ名前に Jr. が付く父親とユダヤ教徒転じてモルモン教徒になったローダ・プラッツの娘キャサリン・ボウジャーンの間にできたとも言われている。
ここでは、一種の逃げであることを承知しながら、父親は誰に拘泥せず話を進めようと思う。というのは、この親父、二人の息子を捨てて行方不明になってしまい、キッドに大きな影響を与えたとは考えられないからだ。無理に夜逃げした父親の影響を探れば、キッドは母親キャサリーンに言い寄ってくる男どもすべてに不信感を抱くようになったことだろうか。
-…つづく
第3回:ビリー・ザ・キッド その3 ~南北戦争の爪あと
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