第509回:憧れの宇高航路 - 四国フェリー -
高松築港駅を出て、お城の敷地を回り込むように歩く。石垣の上、白い建物がライトアップされている。天守ではなく北の丸の月見櫓とのこと。高松城の天守は明治時代に解体された。復元の動きがあるけれど、資料が少ないという。月見櫓を通り過ぎると明るい建物、四国フェリーのターミナルビルがある。黄色地に赤文字。閉店セールでやけくそ気味なバッタ屋のようだ。これだけ目立てば、明日の朝に迷わないだろう。私は夕食になぜか徳島ラーメンを食べて、ホテルにチェックインした。
夜の散歩。ライトアップされた月見櫓の向こうにフェリー乗り場
高松駅に近くの安いビジネスホテルは最悪な宿だった。宿泊予約サイトでは、「設備は古いが立地はよく、24時間出入り自由」という評価だった。これは早朝に出発する私にとって都合がよかった。ただし、早朝出発するために早寝しようと思ったら、とにかく騒がしい。扉をバタバタと開閉する音、廊下を走り回る輩。毛布を被ってもどこかの部屋の話し声が聞こえる。若い声だが子供ではない。卒業旅行の大学生かもしれない。枕元まで男女のふざけあう声が届く。水回りの音も、何をしているか予想できるほどよく聞こえた。
泊まった時期が悪かったかもしれない。しかし、いくら安ホテルとはいえ、同価格帯でここまで壁が薄いホテルは経験しなかった。予約するとき、カプセルホテル併設という部分が少し気になった。カプセルタイプは和歌山で懲りていたからだ。宿と言うより酔っぱらいの避難所で、やはり騒がしくて眠れなかった。だから今回はカプセルではなく、シングルにした。それでも建物が同じなら騒音レベルも同じということか。安すぎるホテルも考え物と、よい勉強になった。
車両甲板から乗船
浅い眠りを4時半で切り上げて、5時にチェックアウト。前夜に現金で支払い済みだから、無人のフロントに鍵を置いていくだけ。この宿の利点はそれだけだった。外に出る。夜明け前の街は静かである。街灯と横断歩道の青い信号機の光に導かれ、港へ向かう。昨夜の天気予報では気温が上がるという。しかし、夜明け前の港は肌寒い。スポーツ用ジャケットの下にトレーナーを着込んで正解であった。
フェリーターミナルの車両入り口には乗船案内を待つ乗用車が4台、トラックとトレーラーが3台。窓口で乗船券を買う。高松ー宇野間の料金は670円だ。出航予定時刻は05時40分。それまで待合所で過ごす。待合所に数人が座っている。周りはコンビニもなく、真っ暗である。10分ほど経って乗船開始。クルマより歩行客が優先で、私を含めて約10人がクルマ用の甲板から乗船する。
客室は暖房が入っていた。荷物を置き、船内を見物する。売店と立ち食いそば屋がある。しかし、この早朝便では営業しないらしい。私は客室に戻らずに、3階のデッキの縁に立った。エンジン音が高まっている。いつ動き出すかと思っていたら、気づかぬうちに船は桟橋を離れていた。後部甲板から高松市にお別れする。さよなら三角、またきて四国。四国はまだ乗っていない路線がいくつもある。遠からず再訪するだろう。
さよなら高松港
背中から吹き付ける風が冷たい。いったん客室に戻る。劇場のごとく座席が前向きにずらりと並んでいる。まばらに座った客がテレビ放送を眺め、トラックドライバーがロングソファーで寝ている。少し離れた座席で、ビジネススーツ姿の若い女性が携帯端末を眺めていた。こんなに朝早くから通勤だろうか。市場関係者かもしれない。気になるが、干渉しないことだ。世の中にはいろんな生活サイクルの人がいる。私も9時から5時までの生活ではない。
船窓右側に女木島が見えて、空が明るくなってきた。宇高航路は所要1時間。日の出予定時刻は06時09分で、航路の半分をすぎた頃だ。どうやら晴天、期待通りの御来光となりそうだ。私は客室を出て、デッキに立った。進路右側に島がいくつか見える。進路左側に本四架橋が見えるかもしれない。しかし、私はそちらを見なかった。ゆっくりと島を通り過ぎる風景が楽しい。船で行く。これが瀬戸内海の旅だと思う。
瀬戸内の日の出
船窓に島が現れた。その右側の遠い島との間に光の気配がある。水平線に小さなオレンジ色の光が生まれた。遠い島は男木島、左から現れた島は柏島。春霞のふたつの島影から、薄日の日出を拝む。男木島の名前の由来は那須与一が打ち抜いた扇という説がある。それに対して女木島はなぜだろう。この航路からはわからないけれど、男木島と女木島の間から太陽が昇る様子を、天子の誕生に見立てたかもしれない。
本四連絡橋ができるまで、国鉄は宇野と高松の間で鉄道連絡船を運航していた。ブルートレインブームの頃の寝台特急瀬戸は宇野行きであった。長崎・佐世保行きのさくら、博多行きのあさかぜ、西鹿児島行きの富士とはやぶさ。それらに混じって、宇野行きの瀬戸があった。高松や高知、松山、徳島へ行くための列車だと知っていても、宇野という行き先は独特の雰囲気を持っていた。寝台特急出雲の浜田、寝台特急紀伊の紀伊勝浦、紀伊に併結されていた寝台特急いなばの米子もそうだ。小学生の教科書には現れない地名である。それだけに、他の行き先よりも好奇心をかき立てられた。
直島付近を通過
私は中学を卒業するまで、泊まりがけの旅を許されなかった。だから当時は時刻表を眺めつつ、空想の旅をした。四国に行くには宇野から宇高連絡船に乗り継ぐ。急行便としてホーバークラフトも運行されていた。所要時間は半分ほど。先行する定期便を追い越す便もあった。国鉄は船にも急行を走らせるんだとわくわくした。祖父の釣り船でひどく船酔いして以来、船は苦手だったけれど、船の急行には乗ってみたいと思った。しかしどちらも乗る機会がなかった。瀬戸大橋がかかり、宇高連絡船は廃止され、寝台特急瀬戸は高松まで走り、やがてブルートレインから電車に替わった。
宇野港へ到着
宇高連絡船は廃止されたけれど、民間企業の宇高航路は残った。自営業のトラックドライバーにとって瀬戸大橋の通行料金は高額だったし、連絡船で休息をとる習慣もあっただろう。海を渡って通勤、通学する人もいた。だからこの四国フェリーと国道フェリーの2社が宇高航路を継続し、架橋以前からの競争関係を続けたようだ。ただしどちらも経営は厳しくなり、国道フェリーは2012年10月に撤退。後に四国フェリーも廃止を決めた。しかし地元の強い要望と支援を得て、なんとか今日まで存続されている。そのおかげで私は、少年の頃に憧れていた船旅を楽しめる。ありがたいことである。
船の速度で景色が動く。海から生まれた太陽は、いったん柏島に隠れ、また顔を出す。ニ度目の日の出は直島との間である。いつしか船の周りに海鳥が群がる。まだ子供の鳥もいて、船が巻き上げる風にあおられて離脱し、またついてくる。必死なようでもあり、風と戯れているようでもある。どちらだろうか。私には、海鳥たちも新しい一日の始まりを喜んでいるように見えた。
また車両甲板から下船
第85玉高丸。852トン。船名は宇野港のある玉野市と高松市から1文字ずつ取った
-…つづく
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